同じ空を抱えて<16>
水晶の洞窟の最奥部には、開けた空間があった。広場くらいの面積の場所には、天井から月光を取り込むかのように、小さな穴がぽっかりと空いている。
開かれた天窓からは、明るい時間帯の今では、透き通るように青く高い空が覗けている。その色が洞窟内にひしめく水晶に反射して、美しく幻想的な色合いの空間を作り出していた。
その中心に、苦悶するようにしゃがみ込んだ“彼”がいた。
「クソッ。あと少し、あと少しなのに……」
まるで体から何かが抜け出るのを抑えるかのように、己の身をかき抱いていた彼は、聞こえてきた複数の足音に弾かれたように顔を上げる。
いつになく焦燥した様子で振り向いた彼は、ギンタたちを見て一度はぎりりと歯を噛み締めたが、すぐに以前のように不敵に笑ってみせた。
「……これはこれは、お揃いのようで」
挑発的な口調だが、誰一人それに噛みつこうとはしなかった。その対比が、どこか哀れみを感じさせた。
先頭のアランが落ち着いた態度で口火を切る。
「よぅ。このあいだとは、ずいぶん様子がちがうみてぇだな」
「フン、姑息な手を使いやがって……さては、よほど焦ってるな?」
「そのセリフ、そっくりそんまま返したるで」
「ええ。余裕ぶってるみたいけど、前よりずっと動きづらいでしょ? ……カルデア一の彫金師の品よ。大したことないとは言わせないわ」
前回親友のARMを壊されたドロシーは、唇に優雅な弧を描いて自信たっぷりに言う。
強がりを見透かされ、“彼”はチッと大きく舌打ちをする。
ゆらりと立ち上がったのを見て一同は構えるが、一人アルヴィスが進み出た。
「ギンタ」
「アルヴィス……」
名前を呼ばれただけだったが、彼の意図がわかったギンタは無言で頷いた。
バッボを持っていない方の腕を横に出し、他のメンバーを制する。彼に任せようと。
礼を言うように、ギンタの方に向けて首肯したアルヴィスは、ゆっくりと“彼”に近づいた。
洞窟内に、硬質な靴音が反響する。足元の小さな無数の水晶が、瞳の色だけがちがう二人のそっくりな顔を、それぞれの鏡面に映し出す。
「ここがお前の生まれた場所か」
「そうさ。……皮肉なものだろう? 美しいとされているものが、この世でもっともみにくく、忌み嫌われる感情(もの)の器になるんだから。……ああ、でも今の君には見えないか」
小さなせせら笑いが聞こえた。アルヴィスと同じ“彼”の声に、いくつもの別の声が交じり始める。
それはオーブに似た“彼”に込められた、多くの人々の声だった。
「……人間は誰しも、相反する感情を内包している。希望と絶望。愛情と憎悪。憧憬と嫉妬。ちがう呼び名だが、それらはどれも表裏一体。根底は同じものだ。切っても切り離せない。……それなのに、聞こえの良い言葉ばかり口にして、汚い感情には気付かない振りをし、ないものとして扱う。そうしてお前たちが目を逸らしていた負の感情が集まり、生まれたのがオレさ」
複数の声の中にいる、己と同じ声が問いかける。
「アルヴィス。君だって本当は気付いているんだろう? たとえチェスを倒しても、争いは終わらないと」
「………どういうことだよ」
ギンタの問いに、黙ったままのアルヴィスの代わりのように、彼と同じ姿をした者は続ける。
「この戦いを生んでいるのは、人間の心の闇。“祈り”や“願い”という綺麗な言葉に形を変えた、尽きない欲望。人の心の闇さ」
「闇……」
「わかりやすく言い換えてやろうか?」
大仰な仕草で、さながら舞台に立つ役者のように“彼”は両の手を掲げてみせた。
「『奪いたい』」
「『壊したい』」
「『殺したい』」
一度言葉を切ると、“彼”は皮肉めいた微笑を浮かべる。
「君たちのその行為もそうだ。自分たちの世界を『壊されたくない』。つまりは『自分たちの領域を犯されたくない』」
「ちがう! オレたちは、メルヘヴンを守るために……!」
「守る、か。美しい言葉だよな。でもそれは敵対する相手を拒絶することだ、違うか?」
反論するギンタに、泰然とした態度で“彼”が返す。
ギンタの脳裏に、なぜだかファントムの言葉が蘇った。3rdバトルの後、レギンレイヴ城を訪れた彼が言い放った言葉。
『チェスの人間は、この世を見限った者が集まった。逆に言えば、世界から捨てられた者たちばかりなのさ』
沈み込みそうになる思考を引き戻すかのように、アランがハッと吐き捨てる。
「屁理屈だな。テメェの主張を振りかざして蹂躙するのを、よしとするわけにはいかねぇだろうが」
「そう。そう言って、皆自分たちの信じる大義を正義とするのさ」
“彼”はまたあざけ笑った。
「そういったエゴの通し合いが、いにしえのときから、時代も場所も問わず繰り返されてきた。この戦いも同じさ。チェスかメル、どちらかが勝利し終結したとしても、必ず闇はまた生まれる。人の心の闇は容易く、また世界を覆い尽くし飲み込むだろうな」
「そんなこと……!」
反論が見つからず、ギンタの声が小さくなっていく。
それでも“彼”の主張を認めるわけにはいかないと、思わず後ろから身を乗り出そうとするギンタに対し、アルヴィスは再度、彼の名を呼ぶ。
冷静な様子の彼を目にして、ギンタは当初の予定通り、全てを彼に委ねることを決めた。
沈黙していたアルヴィスが、ゆっくりと口を開く。
「……お前の言うことは、その通りかもしれない」
「ア、アルヴィス!? 何を…」
「シーッ。ちょっと待って」
慌てて声を上げるジャックをベルが止める。その眼差しは、じっとアルヴィスの背中を見つめている。
彼女の視線を感じながら、アルヴィスは自身の胸に手のひらを宛てがった。
「……オレは今まで、自分の中にある黒い気持ちを『弱さ』と呼んで、否定し弾き出すことで強くなろうとしていた。強くあるためには、弱い自分を捨てなければと考えていた」
伏せていた瞳を開き、真っ直ぐに“彼”を捉えて言う。
「でも違った。その弱さが、人間らしさと言えるものなんだ」
視界はいまだ暗いままだが、アルヴィスの眼(まなこ)はしっかりと“彼”を映していた。
「オレの中にある憎しみや怒りは、確かに戦う原動力の一つだ。でもそれ以上に、オレはこの世界が好きだ。好きだから、守りたいと思った。だから戦うことを選んだ」
「好きだから戦う? おかしいじゃないか。戦禍を厭いながら、力を行使する側に立つなんて」
「確かに、そうだな。矛盾している。……でも、それで良いんだ」
そこでアルヴィスは、わずかに微笑むようにして続けた。
「どちらもオレの本心だ。お前が言った表裏一体の、偽らざる気持ちだ」
迷いなく言い切る彼を、その場にいる全員が見つめる。
「光があるところに、影が生まれるように。どちらかだけを選びとることなんて、本当はできない。……きっと本当は、その必要もないんだ」
信じられないものを見るかのように、アルヴィスの姿をした者は、その赤い瞳を見開いた。
「純粋な、綺麗な気持ちだけで生きていけないことは、もう知っている。……それで良いんだ」
刮目して立ち尽くす“彼”に向けて、一歩ずつ、アルヴィスは進んでいく。
「……嘘だ、そんなの」
棒立ちのまま、驚愕した表情で彼はかぶりを振った。年端もいかぬ子供のような、どこか幼くも見える仕草だった。
「君は永遠を拒みながら、死というものを忌避している」
アルヴィスが歩を進める。その度に、“彼”は言い募る。
「そのタトゥから逃れようと、敵うはずのないファントムに挑もうとしている。失って傷つきたくないからと、最初はその異界の人間とも、行動を共にしなかったくせに」
はっと、ギンタは息を呑んだ。だがアルヴィスは、なおも表情を揺らさずに進む。
「そうだ。今だって、今だって君は、死を恐れているじゃないか!」
追い詰められた獣が咆哮を上げるように、“彼”が叫んだ。
青と赤の瞳がしばし交差するのを、一同は食い入るように見守る。
「……死にたくないんじゃない」
アルヴィスは静かに、凛とした表情で答えた。
「オレは、生きたいんだ」
その言葉を聞いたギンタは一瞬、呼吸を忘れた。
いつか記憶の海で見た幼い少年の姿が、今、目の前で顔を上げて立っているアルヴィスへと変わった。
そのことに、痺れるような感覚を覚えた。
アルヴィスは自身の手に魔力を込める。瞬時に発動されたのは、彼が左の人差し指に嵌めたARM。アルヴィスが普段から身に付けているダガーリングだ。
アルヴィスの手元に、古びた小ぶりのダガーナイフが現れる。手のひらに収まるサイズの柄を両手でしっかりと握った。
「……待て。オレを攻撃すれば、お前もまた傷付くんだぞ」
「ああ、そうだったな」
銀色に煌めくダガーの切っ先が向けられ、少しだけ怯えたように“彼”は言った。対するアルヴィスは、動じることもなかった。
「だが同じ魔力を持った、オレ自身による攻撃ならどうだ?」
動揺が表れたかのように、瞠目した“彼”の姿がぶれる。アルヴィス以外には、“彼”の背後に、幾重にも重なった黒い影が見えた。
息を荒くした“彼”は、眼前のアルヴィスから逃れるため後ずさろうとする。
だが失敗に終わる。アルヴィスの佇まい、また今現在も洞窟の外で発動されているARMのせいで、満足に身動きできなかったのだ。
そうこうしているうちに、アルヴィスが“彼”の真正面へと立った。
アルヴィスは目を閉じると、意識を集中させる。両手をさらに上げ、目的の位置へと狙いを定める。
瞼を持ち上げ、青空の色をした瞳を開いた。
「お前の核は……ここだな」
かつてファントムにゾンビタトゥを穿たれた胸。彼の手の甲と、同じ模様が刻まれた部位。
そこへ目掛けて、ダガーを突き立てた。
痛ましさからだろうか。仲間たちの数人が息を呑む。
多少なりとも痛みや衝撃が来ることをアルヴィスは覚悟していたが、自身の身に何かが起きることはなかった。
ピシリと、硬いものが割れる音が響く。
「……受け入れてやるよ。弱いオレも」
“彼ら”にだけ聞こえるよう、呟いたアルヴィスの耳に、誰かが返したのがたしかに届いた。
「勝手だ……本当に、勝手だ…………」
アルヴィスの手の先で、“彼”の核となっていた宝玉が砕けた。
途端に、アルヴィスの姿をした者は形をなくす。黒い影たちが段々と光を帯びて色が薄れていき、やがて弾け飛んだ。
弾けた光は、天井の穴から外へと飛び出し散らばっていく。散り散りになった光はみるみるうちに小さくなって、どこかへと辿り着く前に見えなくなった。
その一部は、アルヴィスの中へも入っていった。そっとアルヴィスは胸を押さえる。
霧が晴れたかのように、洞窟内へと光が差し込んだ。粉々になった水晶が、最後に太陽の輝きを映した。
役目を終えたダガーを、アルヴィスがリングに戻す。
全てを成し遂げた彼に、ギンタは声をかけた。
「……アルヴィス?」
アルヴィスが振り返る。
目と目が合った。それだけで、わかった。
アルヴィスが小さく口の端を上げる。全身に広がる安堵に、ギンタとほかの仲間たちは嬉しそうに微笑んだ。
「終わったな」
成り行きを見守っていたアランが一言、そう言った。
→第17話