背中合わせで、寄り添って <前>
あの女が出ていった頃のことは、実はあまり覚えていない。
子供の時から何でも欲しがる節はあったけれど、今思えば、というだけで。
あんなことが起きなければ、自分の中で彼女は、尊敬できる大好きな姉のままだった。きっと。
「お疲れ様です! メルの皆さん!」
「今日もウォーゲーム見てました!」
「チェスに絶対に勝って、この戦争を終わらせてくれよ!」
勝利でにぎわう宴の中、民衆たちから掛けられる声に、ギンタが力強く答える。
「おう! 任せとけ!」
頼もしい返事にさらに盛り上がる人々は、ギンタの杯にポプラのジュースをたっぷりと注いだ。
勢いで一気に煽る彼を、やいのやいのと既に顔の赤いジャックやバッボがはやし立てている。
「まったく。あれでは酔いつぶれるのも時間の問題だな」
「だねー」
苦笑するアルヴィスに隣のベルも同意する。そうして何となしに視線を横にずらしたベルが、意外そうに呟いた。
「あ、ドロシー寝ちゃってる」
アルヴィスも目の前のどんちゃん騒ぎから、目線をそちらに向ける。
ベルの言った通り、酒に強いドロシーにしては珍しく寝入ってしまっている。
いつもであれば喧騒を遠巻きにしつつも、宴にはしっかりと参加しているのに。彼女は自分の腕を枕がわりに、小さな寝息を立てていた。
しゃあねぇなぁと、まだ酔いの回っていないアランが毛布をかけてあげていた。
普段はたがいに悪態をつきつつも、なんだかんだ面倒を見ている様子にアルヴィスは微笑を零す。
やがてアランも宴の輪へと加わり、あくびをしていたベルがうつらうつらと船を漕ぎ始め。
今日はもう休むようにと、彼女を先に帰らせたアルヴィスは、まだまだ続く宴会を一人眺める。
すると、眠るドロシーの元へ見慣れぬ少年が近付いてきた。
年はまだ十にも満たないくらい。レギンレイヴへ観戦に来た民衆の一人だろうか。
その挙動がどことなく気になり、気取られぬように、アルヴィスはグラスを傾けつつ彼を注意深く観察する。
少年はきょろきょろと辺りを見渡すと、思い切った様子で一気にドロシーのそばまで近寄る。そうしてポケットをまさぐる。
深く眠り込んでいるのか、ドロシーの起きる気配はない。そして少年はポケットから銀色の何かを取り出した。
少年が立ち上がる。数瞬立ち尽くしたのち、急いで走り去るのを、アルヴィスは青い眼でじっと見ていた。
城から城下町へと繋がる道から、やや外れた林の中。その少年は背中を丸め、隠れるようにして歩いていた。
「君」
突如後ろから声をかけられ、少年はびくりと背を震わせる。怯えた顔で振り向いた。
木の陰にいたのは涼やかな眼差しの、見目麗しい年上の少年。
「その手にあるARM……さっきドロシーから盗った物だろう」
観察するようにアルヴィスを見つめていた少年が、答えに辿り着く。
「メルの、アルヴィス……」
「よりによって、彼女をターゲットにするとは。キミは度胸があるな」
皮肉を交えたアルヴィスの指摘に、少年は驚いた表情を平静なものに戻していく。
「……あいにくだけどあなたは呼んでない。用があるのはあの魔女だ」
幼い顔立ちに似合わない彼の大人びた口調と、攻撃的な態度。そして明確なドロシーへの敵意。
予想していなかった反応に、アルヴィスはほんの少し目を見開く。
だがすぐに瞳を閉じ、近づいてくる気配に耳を澄ませた。
「……だとしたら丁度いい。本人の登場だ」
えっ? と少年が呟いた瞬間、ヒュウゥゥゥと音を立てて風が舞い、二人の髪を激しく掻き乱す。
冷静な表情を崩さぬアルヴィスと、驚く少年の間に空気が収束する。紺碧の夜空から、漆黒の服に身を包んだ魔女が軽やかに降り立った。
「待たせたわね、アルヴィス」
「まったくだ。後は自分でやれよ」
「言われなくても」
親しい者同士の短い会話を終えると、ドロシーは突然現れた訪問者にぼかんと口を開けている少年に向き直った。
視線が噛み合うと、少年ははっと表情を険しいものに戻して睨んできた。
その様子を見たドロシーは、叱責するでもなく、あえて淡々とたずねる。
「アンタ、なんで私のARMを盗んだの?」
「ARMになんか興味ない。ぼくはお前に用があったんだ」
「私に?」
「そうさ」
言葉を証明するかのように、少年はドロシーのARMを地面へと投げ捨てる。
意図を測りかねるドロシーは、すぐにそれを拾おうとはせずに彼の様子を窺う。
そうして、少年は一つの名前を呟いた。
「×××って知ってる?」
「……?」
「一ヶ月前、お前が殺した人間の名前」
「……え?」
思いがけない内容に息を詰める。少年は感情を努めて押し殺した、単調な声で続けた。
「氷の城で死んだ、ぼくの兄だ」
「アンタ……あの時のチェスの身内……?」
少年の言葉に、さすがに目を見張ったドロシーは驚愕を隠すことができなかった。
数ヶ月前、ギンタと再会した氷の城で、自分が粉砕したポーン兵の顔を思い出そうとする。
いくつもの同じ仮面に同じフード。全員あっという間にトトに飲み込ませた。……覚えているはずがない。
ただ自分を強く睨みつけてくる瞳の煌きと、似たものを仮面の奥に見たかもしれない。たぶん、気のせいだと思うけれど。
「六年前、村がチェスに襲われた時。父さんと母さんが殺されたあと、僕も殺されそうになった。けど兄さんはチェスの前に立って言ったんだ。人殺しでもなんでもする。お願いだから、せめて弟だけは助けてくれって」
一見すれば、取引すら成り立たない、子どものつたない願いごとだ。
だが取引は成立した。
「兄さんは村で一番魔力が強くて、どんなARMも使えた。だから……僕を助けるために、兄さんはチェスに入ったんだ」
「……交換条件というわけか」
弟を見逃す代わりに、常人より優れたシックスセンスで、死ぬまで殺戮に加担させる。
どこまでも人の命をもてあそぶ連中だ。兄の哀れな運命を弟の眼に焼き付けることで、より強く彼の罪悪感を煽ったのだろう。
お前のせいで、兄は罪人になったのだと。
「……昨日ペタって人が、僕のところに来て教えてくれた。お前が兄さんを殺したって」
少年はおもむろにポケットから小さな四角い形をしたARMを取り出し、ドロシーの前に投げ捨てた。
ショートブーツに当たってコツンと音を立てたそれに視線を落とすと、キラリと光ったARMは空中に映像を映し出す。どうやらディメンション系のARMのようだ。
異界から出現した獰猛な獣に飲み込まれるポーン兵、画面に背中を向けて立つピンク色の髪の人物。
推測しなくともわかる。これはあの氷の城での映像だ。
偶然再会したギンタたちへの助力として、ドロシーがチェスを倒した時の出来事。
ドロシーはわずかに秀麗な眉を歪めたが、静かな表情で答えた。
「……あの時、私は私なりの信念を持ってあんたの兄を殺した。謝る気はないよ」
「ぼくは謝罪が欲しくてきたんじゃない」
「じゃあ何? 何があんたの望み?」
「ぼくが欲しいのは……」
少年は詰めていた息を一度吸った。
「お前の命だ、魔女ドロシー」
少年特有の高い声で紡がれた不穏な言葉は、妙な余韻を持って響いた。
唇を引き結んだまま、ドロシーは少年の憎しみの感情を受け止める。
「お前が兄さんを殺した。あんなに優しかった兄さんを。こんな、弄ぶように、あっさりと」
繰り返し再生されるARMの映像を、拳を震わせながら少年は見つめる。刻みつけるように、じっと。
途中で我慢できなくなったようにうつむき、頭を振りかぶる。
「そのことも全然覚えてなかったんだろ。あんまりだ、ひどすぎる」
ドロシーは表情を変えないままだったが、わずかに唇を噛み締める。傍観していたアルヴィスが静かに言った。
「……口を挟むようだが、君を守るためとはいえ、チェスに入る選択をしたのは君の兄さんだ。彼もまた、彼女と同じように人を殺している。君以外の、罪のない人々を」
「わかってるさ!! でもぼくは!!!」
噛み付くように叫んだ少年は、再度かぶりを振った。小さな子供の表情が見え隠れし、涙が浮かんだ。
「それでもぼくは、兄さんが好きだったんだ!!!」
つかの間、ドロシーは悲しい目をして少年を見つめる。
「大好きな兄さんだったんだ。チェスでも、人殺しでも大好きだったんだ」
対して少年は、復讐の暗い炎を宿した瞳で彼女を見据えた。墓から立ち上がった死人のように、ゆらりとした動きで顔を上げる。
「兄さんを殺したお前を、ぜったいに許さない。ウォーゲームで今さらぼくたちを助けようとしたって、もう遅い」
罵りの言葉を吐き捨てると、少年は自身の背後に向かって叫んだ。
「行って!!」
少年が叫んだ刹那、繁みから仮面をつけたポーン兵たちが飛び出す。
囮だったのだろう、少年と対峙していたドロシーを、突然の乱入者たちはあっという間に取り囲む。
「やっと出てきたわね。さっきから気配にイライラしてたのよ」
冷たい目つきで薄く笑いながら、ドロシーは瞬時にARMを発動させ、箒を構えた。
「ゼピュロスブルーム!!」
愛用である西風の箒で突風を起こし、標的を次々と巻き込んでいく。
傍にいたアルヴィスにも攻撃の手が伸びる。一瞬ドロシーは焦るが、彼が手にいつものロッドを発動させて応戦するのを見て、すぐに口の端を上げた。
目の前の相手に向き直る。箒を振るうドロシーの脳裏に、眼前の少年と幼い少女の声が反響する。
『兄さん、どうして』
“お姉ちゃん、どうして”
———イライラする。
『チェスでも大好きだったんだ』
“大好きだったのに、どうして”
———私からお姉ちゃんのことを除いたら、なんにも残らない。
“どうしてあんなことしたの”
———このゼピュロスも、お姉ちゃんから貰ったもの。
『大好きな兄さんだったんだ。チェスでも人殺しでも大好きだったんだ』
“あんなに酷いことをしてるのに、まだそれでも好きなの”
———そんなに依存して、辛いだけなのに。
“『ディアナ』じゃなくて、『お姉ちゃん』って呼びたいの”
———なぜ思い出を捨て切れないの。
——————ねえ、お姉ちゃん。
どうして、カルデアを捨てたの?
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