僕に出来ること

 

 

 

 眠れないからと自分に言い訳をして出かけたのは、無意識に彼のことが気になっていたのかもしれない。

 昼間ゾンビタトゥの症状で倒れた彼。

 夕方には大分症状も治まったようで、数刻前自分が覗いたときには規則的な呼吸を繰り返していた。

 

「アルちゃん、入るで」

 

 しかし、自分にしては控えめなノックをして部屋に入ると、眠っているとばかり思っていた彼がいない。

 ベッドの上には先程まで彼が着ていたパジャマと、上掛けやシーツが整えられて置いてあった。

 触るとわずかに温もりが残っていたので、出て行ってからそう経ってはいないと見る。

 

……散歩やろか」

 

 あんな病み上がりの身体で。

 いくら症状が治まり、痛みには慣れているから大丈夫だと彼が言い張っても、あの苦しげな様子を見たらそんなことを気にしてはいられない。

 ほんの少しの散歩でも、帰る途中で倒れたりしていないか心配だ。

 とりあえず、城の周りで彼がよく散歩にいく場所だけでも見ておこうと、ナナシは部屋を後にした。 

 

 生き物が寝静まり、静寂に満ちた森の中、草を踏みしめる微かな音をたてて、ナナシはアルヴィスがベルとよく散策に来ていた湖へと向かう。

 ナナシは彼を見つけて様子が大丈夫そうなら、声をかけずに帰ろうかと一瞬考えた。

 

 

  だが、それでいいのかという疑問が心に生まれる。

 一人にしていいのか、と。

 

 

 アルヴィスは常に冷静に物事を見抜き、あまり人と馴れ合おうとはしないため、孤高な騎士といったイメージがある。

 だがまだ十六歳の少年で、本来加護されるべき立場の人間だ。

 それはギンタやジャック、スノウ達も同じだが。

 まだ、外見的にも精神的にも未熟さが露呈している彼らには、手を差し伸べるものも多い。

 だが彼は?

 彼には誰が手を差し伸べる?

 十六歳という多感な時期には、それまでの子供の扱いは失礼だ。

 しかし脆さを抱えた魂に、大人と同じ態度を求めるのもまだ早い。

 お節介なこととも思うが、ナナシは誰かが傍にいた方がいいのではないかと思う。

 強い彼は、それを拒否するかもしれないけど。

 呪いに抗い、生きるのに一生懸命な彼に、少しでも何かしてあげたいのだ。

 

 

 アルヴィスの呪いを知った後、ナナシは密かにルベリアの仲間に強力なホーリーARMを手に入れられないか相談をした。

 初めから解呪を期待したわけではない。少しでも何かしたかったのだ。

 

 

 『ボス! 先日の件だが、残念だが駄目だったぜ』

 『うーん……なにも呪いそのものを解呪できるほど、強力なARMやなくたってええんやで。なんかないん?』

 『この間の大戦で、ホーリーARMそのものの価値が上がってる。滅多に市場に出回らないし、あってもべらぼうな値段がついてやがる。ほかの奴らが持ってるのも、傷を治すとかその程度だ』

 『……ファントムの呪いを和らげるほどの効果は、期待できへんってことか...堪忍な、こない忙しいときに手間かけさせてしもて』

 『気にするなよボス! 少しでも何かしてやりたかったんだろ?』

 『俺たちだって同じだ! ボスと一緒に戦ってる仲間は、俺たちの仲間も同然だからな!』

 『……サンキューな』

 

 

 何かをしたい、と思う気持ちは本当だが。

 もしかしたらこれらの行為は、何も出来ない自分の罪悪感を薄れさせたいだけかもしれない。

 彼の為に尽力したという事実で。

 自分が息をするのを楽にしたい、それだけ。

 そんなことで、彼の苦しみがなくなるわけではないのに。

 

……アカンアカン、自分暗うなっとる」

 

 頬をパシパシと叩き、気分を入れ替えようとよっしゃ! と小さく拳を作る。

 そうしてまた暫く進み、茂みをかき分けた向こうでかすかな水音がした。

 気付いたナナシは若干スピードをあげ、湖にいる影からはギリギリ見えない位置で立ち止まる。

 

 

  ぱしゃん、ぱしゃん

 

  岸に近い場所で、アルヴィスは水浴びをしていた。

 いつも羽織っているクロスガードのジャケットを岸に置いた彼は、普段決して見せることのない上半身を惜しげもなく晒していた。

 月明かりに照らし出された横顔は、気だるな瞳をしていてやや疲れているように見える。

 当然だろう。先程まで半ば病人だったのだから。

 鍛えられた細い身体には、水に濡れた文様が独特の色彩を放っている。

 それを見て、以前風呂場で鉢合わせたときのことを思い出した。

 

 

 耳元で囁かれた『ありがとう』の言葉。

 あの時自分がかけた言葉は、彼の救いになっただろうか。

 

 満足したのか、ふう、と溜め息をついた彼は水から上がる。

 無造作に頭を振ると、髪から落ちた雫が螺旋を描いた。

 

 どうでもいいことだが、男の自分から見ても、アルヴィスの一つ一つの動作は、とても綺麗だと思う。

 戦闘の時もそう。洗練された無駄のない動きは舞のようにも見える。

 見目麗しい彼がそれをやるとますます映え、きゃー! と歓声を上げる女の子たちもいた。

 しかし彼女たちは知らないだろう。

 こんなにも脆い表情をした彼を。

 自分の身体を見つめて、瞳を揺らめかせる姿を。

 

 

……身体は大丈夫なんか?」

 

 

 そんな姿を見ていられなくて、気がついたらナナシは彼に話しかけていた。

 驚かせないようそっと声をかけたつもりだったが、アルヴィスは珍しく目を見開き、吃驚した顔でナナシを見つめた。

 

「ナナシ……いたのか」

 

 ある程度のARM使いは、普段魔力を押さえる癖をつけている。

 だが優れた術者ともなると、その押さえている気配をも察知する事が可能である。

 アルヴィスも勿論、常ならば戦闘外でも仲間の微細な魔力を感じ取る事ができる。

 しかし、今の彼はゾンビタトゥの影響もあって、自分以外の存在を認知できなかったに違いない。

 

「わざわざ出かけんと、城の風呂使えばええのに」

……少し気分転換がてら、散歩もしたかったんだ。痛みはもうない」

 

 だから大丈夫、とわずかに苦笑した彼は、あまり自分の行動が褒められるべきでないとわかっているのだろう。

 それをあまり口うるさく言うこともないと思い、ならええわ、とナナシは笑みを返した。

 タンクトップとジャッケットを着込むと、アルヴィスは首を傾けてナナシをじっと見つめた。

 それまで彼の様子を見守る側だったのに、いきなり見つめられたナナシは内心少したじろぐ。

 

 なんや? 自分なんかしたか? それとも怒っとる?

 頭の中でさまざまな憶測が駆け巡るが、とりあえずナナシも見つめ返した。

 

  ナナシよりも背の低いアルヴィスが彼を見つめると、自然と見上げる形になる。

 そんな彼を見つめるナナシは、見下ろすような体勢になる。

 

  しばし不思議な沈黙が降りるが、やがてアルヴィスが口を開いた。

 

「すまなかった」

「え?」

「オレを心配して来てくれたのだろう?」 

 

 余計な手間をかけさせた、とアルヴィスは少し目を伏せて言った。

 

「昼間も、皆に心配かけたようだし」

 

 これではギンタ達に示しがつかないな、とアルヴィスは冗談ぽく笑う。

 それが無理に笑っているのだと、ナナシはすぐにわかった。

 あんな切ない表情を見たあとなのだ。

 人間はそう器用に出来ていない。

 すぐに気持ちを浮上させることなどなかなか出来ない。

 なのにこうして気持ちを抑えようとするのは、きっと彼の性分であり、強がりであり、弱さなのだ。

 

 ナナシは小さな溜め息を付くと、がしがし頭を掻いた。

 ……ここは言葉を選ぶよりも、ギンタではないがストレートに告げた方がいいだろう。

 そうでもしないとこの少年は、自分からは絶対に心情を吐露しない。

 

 

 「……あんな、アルちゃん。君はもっと弱音吐いていいんやで」

 

 

 そう思いまっすぐに言葉をぶつけると、アルヴィスは無理矢理浮かべた笑みを消した。

 

 

「君が強くあろうとするのはよくわかる。せやけど自分から見たらアルちゃん、まだまだ子供や」

 

 

  突然始まったナナシの言葉に少し驚いた顔をしていたアルヴィスは、後半のくだりで一瞬肩を震わせると彼を拒絶するように目をそらした。

 追いつめられた者のように、固い表情をして押し黙る彼に向かい、ナナシは更に言葉を続ける。

 

 

 「苦しい時は気持ち吐き出さんと、ますます苦しくなるだけやで。それは君が一番わかってるやろ?」

 

 

 言葉が紡がれるたび、悔しそうに悲しそうに顔を歪める姿を見たいわけじゃない。

 君の抱えてる荷物を、少しだけでも持ってあげたいんだ。

 

 

 「苦しむ君を見てるだけしか出来ん、自分も辛い」

 

 

  ナナシの低く押し殺したような声にはっと表情を変えたアルヴィスは、顔を上げナナシの顔をまっすぐ見た。

 まじまじとナナシを見つめるアルヴィスの心が、なんとなく、揺らいでるのがわかる。

 強さと同じくらい優しさを持つ彼は、自分よりも他人の感情を優先する。

 この場でもきっと、自分が辛いことよりもナナシが辛いことに心を動かしたに違いない。

 これはナナシの密かな計算でもある。

 自分のためと言い訳をして苦しみを口にすることで、それが彼のためになればいい。

 

 結局は、それもエゴなのだけれど。

 

 

 「だから言うてみ。今君が思うてること、不安なこと、全部言うてみ」

 

 

 曇ったアルヴィスの表情をかき消す様に、ナナシはいつものように、にっと笑ってみせる。

 

 

「なんやったら今日は、アルちゃんの言う事全部戯言(たわごと)や思て、聞き流してもええよ」

 

 

 笑顔のナナシとは対照的に、アルヴィスは困惑した様子で彼を見上げていた。

 先程と同じように、二人の間に沈黙が降りる。

 アルヴィスの次の反応を、ナナシはただ黙って待つ。

 

 

 アルヴィスが、何かを言おうと口を開きかけた。

 しかし言の葉に載せる直前で、唇の動きを止める。

 そしてわずかに眉を歪めると、困ったような顔をして俯いた。

 

 

 そう、この表情でいい。

 

 

 無理に綺麗に笑ったり感情を殺すより、こうして年相応な反応をしてくれた方がいい。

 

 

 やがてほんの少しの間目を瞑ると、観念したように、アルヴィスは落ち着いた表情でゆっくりと瞳を開けた。

 それを降参の意ととると、ナナシは口元に浮かべた笑みを優しげなものに変えた。

 アルヴィスに座り、と手で合図をし、湖の岸辺に座り込む。

 長くて持て余す足を投げ出すと、粒子が砂に近いのか地面がザラリと乾いた音を立てた。

 ややあってから、アルヴィスも隣に腰を下ろす。

 緩く曲げた両膝の下で腕を交差させ、口を噤んだまま彼は湖を眺めた。

 しばらくの間、月明かりで光る波の静かな音色が二人を包む。

 

 波の立てるリズムは、心音のそれと似ていて、時折無性に聞きたくなる。

 陸に生きる人間が水を恋しいと思うのは、生まれる前、母親のお腹にいる際羊水と呼ばれる水の中で育ったからだという。

 記憶を失くした自分を含めた、誰もがその記憶を覚えてないけれど。

 幼子が母親の心音を聞いて安心するように、水の生み出す鼓動に似たこの音は、母の腕の中にいる時のような、暖かな安らぎをくれるのかもしれない。

 だから、アルヴィスも好んでこの場所に来ているのだろうか、とナナシが考えているとアルヴィスがやや掠れた声音で喋り出す。

 

 

……最近……わからなくなるんだ」

……何が?」

「呪いに生かされているのか、自分で生きているのか、わからなくなる」

…………

 

 初めてに聞くに等しい彼の心情に、自然と神妙な表情になったナナシは次の言葉を待つ。

 ナナシの視線を受け止めたまま、アルヴィスは少しだけ笑み、抱え込んでいた膝を緩め右手を胸に滑らせた。

 

……そんな時、無性にこの音が聞きたくなる」

……波の音か?」

……いや、違うよ」

 

 あれ、と予想が外れたナナシが頭に疑問符を浮かべていると、アルヴィスは膝に乗せていた頭をこちらに巡らせた。

 しばし不思議そうにナナシを眺めていた彼だが、何かを思いついたのだろうか。

 不意に、楽しそうに口元を上げた。

 

 

……ナナシも聞くか?」

 

 

 浮かべられた悪戯っ子のような表情に、ナナシの心臓が一瞬早く打った。

 アルヴィスが浮かべたそれが、純度の高い、少年そのものの笑みだったのだ。

 

 唐突に訪れた衝撃に動けないままでいると、アルヴィスがナナシの手を掴んだ。

 すっと立ち上がると、ナナシの手を引いて湖に向かって歩き出す。

 暴力的ではないが、有無を言わせない力で。

 しっかりとナナシの手を握ったまま、ざぶざぶと湖の中へ入っていく。

 

 

「ア、アルちゃん! 何処行くん?!」

「わかってるだろ? 水の中だよ」

 

 

 平然と返したアルヴィスはナナシの反応を楽しんでいるようで、得意げにふっと笑った。 

 

 

「知りたいんだろう? オレの言う“音”を」

「せやけどなんちゅー強引な……」

「あ、ナナシ。足下に気を付けた方がいい。ここは滑りやすいから……」

「おわっと!?」 

 

 アルヴィスの言葉が終わらないうちにバランスを崩したナナシは、ばしゃーんと盛大な音を立てて派手にひっくり返った。

 するりと外れた手に振り返ったアルヴィスは、少し目を丸くし、楽しそうに微笑みながらぶくぶくと沈んでいるナナシを待つ。

 

「ぷはぁ! ——うっわ、服ン中までびしょびしょや」

「ふふふ、随分派手に転んだな」

「アルちゃんが無理矢理引っ張るからやないか」

「注意はしたぞ?」

「もーちょい早く言ってほしかったで」

「あはは!」

 

 声を上げて笑うアルヴィスを見て、どこか暖かい穏やかな気持ちがナナシの胸を満たした。

 しかし同時に去来したのは、わずかな痛み。

 

 

 あんなに切ない表情をするほど、苦しみを抱えているのに。

 何の影も背負ってないみたいに、笑うから。

 

 

 ナナシは己の失態に罰が悪そうな振りをして笑い返すと、胸の痛みをごまかし話題を変える。

 幸いナナシの少々無理矢理な話題転換に、アルヴィスは珍しく気が付かないようだった。

 

 

「んで? どないしたら聞けんの?」

……水に入って、目を瞑ればいい」

「それだけ?」

 

 瞳を瞬かせてナナシが聞くと、アルヴィスはこくんと頷いた。 

 

「呼吸だけをして、耳を澄ましてみろ。……じきに聞こえてくる」

……りょーかい。ほなら行くか?」

「ああ」 

 

 そう答えると、滑って以来離れていたナナシの両手をアルヴィスがとった。

 どうやら同じタイミングで潜れという意味らしい。

 先程とは違う、ほんの少し、きゅっと力が加えられた両掌を、ナナシは優しく握り返す。

 それに気付いたアルヴィスが、小さく口元を緩ませた。

 

 

 宵闇色の水中へ、二人は勢いをつけて、潜った。

 

 

 

 初めに見たのは、月光に透かしてうっすらと見える、アルヴィスの顔だった。

 闇と同じ色をした髪が、水の浮力にゆらゆら揺れている。

 瞳を閉じ、ただ呼吸だけを繰り返している彼に習い、ナナシも目を閉じる。

 

 視界が暗くなり、浮遊感だけが感覚を支配する。

 時折吐き出す己の気泡の音がうるさい。 

 ナナシは呼吸の間隔を少し空けてみた。 

 

 

 と。

 

 

  とくん

 

  とくん

 

 

 耳の近くで、かすかに音がする。

 

 

 

  とくん とくん 

 

  とくん とくん

 

 

 

 近くじゃない。もっと奥で... 

 

 

  とくん とくん 

 

  とくん とくん...

 

 

 

 

 

 ……いや、違う。身体そのものが打つ、この音は。

 

 

 

   と く ん

 

 

 

 

 

 自分の生きている、音。

 

 

 

 

 

 

 水面に顔を出すと、世界が戻ってくる。

 やや呼吸を乱しながら、髪から雫を滴らせたアルヴィスが訊ねた。

 

「——聞こえたか?」

「——ああ」

 

 つい長く潜ってしまい、同じように息を乱しながらナナシが答える。

 

 

 

 

「いのちの、音やな」 

 

 

 

「不思議だろう? 身体の中に常にあるのに、初めて聞く音みたいに大きく響くんだ」

「そうやな…吃驚したわ」

「こうして聞くと、自分が生きているんだな、と思う」

 

 余韻を噛みしめているのか、幾分柔らかい表情で胸に手を当て、目を閉じているアルヴィス。

 束の間の安らぎに浸る彼に、聞いてしまうことに少し罪悪感を覚えたがナナシは続けた。

 

 

「……さっき生かされてるか、そうでないのかわからないって言うてたけど」

 

 

 月明かりに照らされた瘠躯に、紅々と存在を主張していたそれを思い出しながら、ナナシは労りに満ちた柔らかい声で言った。

 

 

「自分が見た感じ、タトゥはまだ完成しとらんかった。だから君は正気を保てるんやないの?」

 

 

 つまりアルヴィスは己の意志で生きているのではないかと、暗に示唆した言葉に、首筋を伸ばした彼は切なそうに目を伏せた。

 

 

「……確かにタトゥは廻り切っていない」

 

 

 アルヴィスはナナシを、悲しい瞳のまま見据えて言った。

 

 

「だが、それだけだ」

 

 

 短いその言葉が、ナナシの胸に重く響いた。

 

 呪いが進んでいる中、自分という存在が確かにあると、どうしてわかる?

 歪んだ生を歩んでいるのではないと、誰がわかる?

 

 

 むしろ、その忌まわしき力で生かされていると考える方が、自然ではないだろうか。

 

 

(何が荷物を持ってあげたいや、自分)

 

(こんなに苦しんどるアルちゃんの生を、肯定することも出来ん)

 

 

 ぎりっと拳を握りしめる。

 ぱしゃんと、腕の動きに触れて、湖面が揺れた。

 

 

 二人を中心に波紋が生まれる。

 波に合わせ揺らめいているアルヴィスの姿が。 

 不安定な、彼の心の様に見えた。

 

 

「諦める事はいつでも出来る、と」

 

 

 ナナシから視線を外したアルヴィスは、青白い光を湛える月の方を向いた。

 

 

「そう自分に言い聞かせて、六年間生きてきた」

 

 

 静かに自分たちを照らし出すそれを見上げながら、いつもの揺るぎない調子で彼は続ける。

 

 

「この信念は、この先も変えるつもりはない。だが……」

 

 

 そこまで言った彼は一旦口を閉じ、夜空から湖面へと視線を落とした。

 しばらくの間沈黙し、自身の手を見つめた。

 

 

…怖いんだ」

 

 

 そうして漏れた呟きは、その声量とは反対に破壊力を持ってナナシの胸を打った。

 

 

 

「呪いが完成して、皆と同じ場所に立てなくなるのが怖い」

 

 

「大事なものをつくって、失うのも怖い」

 

 

「そう考えている自分がなくなるのが……一番怖い」

 

 

 

「覚悟はできているのに、こんなことばかり考えているのは、オレが弱いから…かな?」

 

 

 圧倒的な悲しみに、ナナシは何も言えなかった。

 何度か何かを言おうとしたが、かけるべき言葉を一つも持っていなかった。

 

 

 ナナシは自分の表情をアルヴィスから見えないように少し視線を落とし、歯を食いしばる。

 

 

…アルちゃんだけが弱いのとちゃう。人間やったら当たり前のことや」

 

 

 憤りに声が震えないようにしながら、無造作に下ろしていた両腕を伸ばす。

 

 

「ただ君の痛みは、他の人よりも辛いだけなんや」

 

 

 力が籠もらぬよう気をつけながら、ナナシはアルヴィスの両肩に手を置いた。

 しばし肩にかかる力を黙って感じていたアルヴィスは、ふいにそっと息を吐いた。

 

 

「…優しいな、ナナシは」

「…え?」

 

 

 呆けた声を出して顔を上げると、左手を持ち上げたアルヴィスは両肩に乗せられた手に触れた。

 

 

「戯言(たわごと)だと思って聞き流す、と言ったのに、こうして真摯に向き合ってくれてる」

「…うっそうそ。めっちゃ冗談や思てるで」

「…そうか」

 

 

 また、胸が激しく痛む。

 

 

「自分、知っとるもん。アルちゃんが強い人間なこと」

「…そうだな」

 

 

 添えた掌の力をかすかに強くして、アルヴィスが微笑った。

 泣きそうな顔で、それでも嬉しそうに。

 それにナナシが顔を歪めた時、アルヴィスがナナシの服を縋り付くようにして掴んだ。

 

 

「なぁナナシ、戯言(たわごと)のつもりで聞き流してくれていいんだが」

 

 

 

 

「もし、どうしようもなくなった時は」

 

 

 

 無意識に服を掴む力を強くして、ナナシの胸にうずめていた顔を上げた。

 

 

 

 

「オレを、殺してくれるか」

 

 

 

 

……何で、」

 

 

 自分に頼むん? とは、聞けなかった。

 

 

「…死に方ぐらい、自分で選びたいな」

 

 

 まっすぐナナシを見上げるアルヴィスは、冗談のような軽い響きで答え、苦笑する。

 そして、その瞳に切実な意志を映しつつ付け加えた。

 

 

「それに、ナナシは優しい」

 

 

 夜の風が肌の上を通り抜ける。

 色素の薄い前髪が少し揺れた。

 

 

 何て残酷なのだろう、と思う。

 この少年がではない。少年の背負う運命がだ。

 

 

 このあまりに過酷な運命を背負った少年に、ナナシは何かをしてあげたかった。

 その為に出来ることなら何でもしようと思った。

 今でも、そう思う。

 

 

 たとえそれが、絶望の未来に対する約束でも。

 

 

 

 

「————ええで、殺したる」

 

 

 

 自分のエゴに答えてくれた彼に。

 

 

 気休めでなく、真摯な言葉を返したい。

 

 

 

 

「自分が、アルちゃんを殺したる」

 

 

 

 

  ああ、そんな。

 

 

 

  幸せそうに笑わないでほしい。

 

 

 

 

 誰かを救いたいと、どれだけ想っても。

 無情に訪れる運命の流れに、人は無力なのだと思い知る。

 

 

「…そろそろ戻ろうか、ナナシ」

「…そうやな」

 

 岸の方へとアルヴィスが歩み始める。

 彼が歩を進める度に生まれる波のように、人はきっと、気持ちを揺らすことしか出来ない。

 だが。

 

 

……アルちゃん」

「ん?」

 

 

 込み上げる感情に喉が痛んで、ナナシは擦れた声で名を呼んだ。

 振り返ったアルヴィスを、黙って胸に引き寄せた。

 

 

 驚いたアルヴィスが微かに息を詰め、腕の中でわずかに身じろぐ。

 それに構わず、ナナシはただアルヴィスを抱きしめ続けた。

 

 

  とくん とくん

 

  とくん とくん

 

 

 

「あ…

 

 呟きが漏れ、硬直していたアルヴィスの身体から力が抜ける。

 

 

「聞こえるか?」

「…ああ」

 

 

 抱きしめられた自分の身体と、同じリズムで。

 ナナシの中で響く、音がする。

 

 

 

 ——ああ。オレはまだ、生きている。

 

 

「生きてるかわからなくなったら、こうして伝えたるから」

 

 

 この身体に、脈打つ熱いものがあると。

 

 

「何度でも、伝えたるから」

 

 ただ抱きしめて、温もりを伝えることが救いにはならない。

 それでも伝えたい、何かを。そうしたい者がいることを。

 

 

「忘れんといて」

 

 

 

「…わかった」

 

 

 囁くような声で答え、アルヴィスは瞳をゆっくり閉じた。

 投げ出されていた腕を、ナナシの背中にそっと回した。

 

 背中を上がってきた掌の感触に、ナナシは優しい目をし、ほんの少しだけ口元を緩める。

 そしてそのまま、彼を抱きしめ続けた。

 

 

 

 

 青白い湖の中心で、二つの影が立っていた。

 それから生まれる小さな波が、反転した世界を揺らしていた。

 しかしその影だけは、そこにはっきりと、いつまでもあった。

 

 

 

 

 

END

 

 

 

 

 

 まず初めに。

 キリリクをして下さった那都様、お待たせして申し訳ございませんでした!

 こんなにも時間をかけてしまったのに、よくわからない代物になってしまって本当に申し訳ない限りです。

 ですがその分、心を込めて書き上げました。キリリク小説、良ければどうぞ受け取って下さい。

 

 今回はナナシ視点でアルヴィスを描こうと思い、アルヴィス自身の明確な感情表現はなるべく避けたつもりです。

 段々と書いているうちに気持ちがナナシとシンクロしていって思うように文章が進まなくなりました(苦笑)

 また私事なのですが、この話を書いている際パソコンが何度もフリーズしてその度に書き直すのが大変でした。

 その時の「あ”ーーー!!」という苦悩の生々しさも文章に出ていると思いますが、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

 

 イメージ曲は、タイトルから連想した「Shining Tears」です。

 歌詞の「僕にとってできること…」という部分が似てるなぁ…と。…安直ですね(苦笑)

 あの曲のような疾走感はないんですが、ナナシの優しい気持ちが少しでも表現できていたら嬉しいです。

 

 最後までお読み下さり、有り難うございました!