刹那のシンパシー

 

 

 

 雲のない、澄んだ空気で満ちた夜だった。月光が地上を静かに照らし出す中、わずかに水分を含んだ大気が、ひたりと肌に触れる。

 夜半、チームメイトを起こさないようにそっと部屋を出てきたアルヴィスは、城の近くで夜風を浴びていた。どうにも目が冴えてしまい、少し散歩に出たのだった。

 どことなく夜露の気配を感じさせる空気を、ゆっくりと吸い込む。

 穏やかで、平穏な夜だった。生きもの達もみな寝静まっていた。

 

 そこへ不意に、一つの魔力が生まれた。空間転移の魔法。アンダータの気配。

 こんな時間に、と訝しみつつも魔力の主を探るアルヴィスは、徐々に明らかになったその正体に目を見張る。

 数歩、魔力の方へ向かって駆け出した。

 紫がかった銀髪が、ふわりと揺れた。

 

「! おまえ……っ」

「こんばんは」

 

 敵意を剥き出しにするアルヴィスとは真逆に、突如現れたファントムは穏やかな調子で挨拶をした。

 人を小馬鹿にするような、いつもの飄々とした笑みではなかった。かといってアルヴィスにだけ見せる、妙に親しげな態度でもなかった。

 その普段との違いに、戸惑いながらもアルヴィスは怒気をおさめる。向こうに争う気はないようだと、冷静な思考が告げていたからだ。

 アルヴィスが高めた魔力を抑えたのを見て、ファントムは微笑んだ。どこか嬉しげな表情だった。

 

「見せたいものがあるんだ」

 

 誰に?

 何を?

 そうアルヴィスがたずねる前に、ファントムは手のひらを差し出した。包帯の巻かれていない、人の形をした指の方だ。

 

「つかまって」

 

 わずかに躊躇するが、数秒ののち、アルヴィスは彼の手に自身の手を添えた。

 ゾンビタトゥの刻印が刻まれた手。その手から、ひんやりとした温度が伝わる。

 アルヴィスの体温の感触に、ファントムは微笑を深めた。

 

 

 行こう。そう言うと、ファントムはアルヴィスを連れて何処かへと向かった。

 

 

 

 

 目の前の景色が変わり、目的地に着いた。先程と同じ、どこかの森の中のようだ。

 ファントムの先導で、アルヴィスは森を抜け、緩やかな傾斜となっていた地形を登りきる。

 途端に、目の前に広がった情景に息を飲んだ。

 

 淡い青い光が、無数に散らばり光っている。

 月が照らす小高い丘の辺り一帯を、視界の向こう側までいくつもの淡い灯りが瞬いている。ゆっくりと明滅するような柔らかいその明かりは、まるで蛍のように自ら発光しているようで、時折光を揺らめかせていた。

 

「これは……花なのか?」

 

 アルヴィスの腰辺りまである植物の群れが、どうやら幻想的な光源のようだ。

 

「この季節だけに咲く、月の光に反応して開く特別な花さ」

 

 ファントムは屈むと、手のひらで花びらに触れる。淡い光が、花弁の中心からほんのりとやさしい光を放っている。

 

「まるで地上に星の灯を零したみたいだろう?」

 

 アルヴィスは素直に、唇から感嘆のため息をこぼした。

 

「ああ……とても、とても綺麗だ」

 

 美しく儚げな明かりは、自分の裡まで照らし出されるような、そんな清浄さすらあって。

 どこか畏怖すら覚えつつも、目を離せず、アルヴィスは心を奪われたままだった。

 そんな彼の反応を満足げに見届けたファントムは、星の草原へと草を掻き分け入っていった。

 その少し後ろを歩き、アルヴィスは彼が花びらを掬いとる動作を眺める。

 花をちぎってしまわぬよう、優しく、愛おしげに触れる指は、男性らしく骨ばっているが細い。長い指が、月明かりに照らされる花弁のシルエットに映えていた。

 アルヴィスはその光景に知らず見入る。

 

(……綺麗な指だ)

 

 こうして花を愛でる心が、綺麗と思う心があるのに。

 彼の肉体は、すでに人間(ひと)のものとは違うのだ。

 

 

 ……それは先刻、彼に触れた時に思い知っている事実だ。

 けれどこんな彼を眺めていると、メルヘヴンのどこかの村にいる、平凡な青年と何ら変わらないように見える。

 普通の格好をしていたら、この男が世界を滅ぼさんとするチェスの司令塔だなんて誰がわかるだろうか。ヴェストリで会ったギンタのように。

 

 

 とめどなく思考をめぐらせていたアルヴィスを、知ってか知らずか。花に触れていたファントムが再び話しかける。

 

 

「前はこの花も、向こうの丘の辺りまで見られたんだけどね、今はここでしか見られなくなってしまった」

「……何故だ?」

 

 流し目のような冷たい視線をファントムはアルヴィスへと送る。

 数秒の沈黙ののち、彼は答えた。

 

 

「……人間だよ」

 

 

 ファントムの言葉には、冷えた響きがあった。草原の青い光が、触れてもいないのに冷たい肌触りをアルヴィスの胸にもたらす。

 

 

「彼らは花が咲いていることなんか知らない。知ろうともしない。自分たちの都合で環境を作り替える。自分たちが美しいと思うものだけを花壇に植えて、気が向いた時にだけ水を遣る。それでいて、失われたものを嘆く」

 

 

 花を撫でるように触れていたファントムの手に、力がこもる。

 ぷつりと、花弁が花の茎から外れる。

 手折った花びらを、掌を上に向けて広げファントムは風に落とした。

 うすく小さなそれは、青い光の海の中に紛れて、見えなくなった。

 

 

「傲慢もいいところさ」

 

 

 ファントムの声音には、淡々とした中にもたしかな憤りが感じられた。

 アルヴィスも同意できる、人として当たり前の感情だ。

 理解できる、と感じてしまった部分。似ている、と感じた部分。

 

 

 ———そう。アルヴィスはもう、目の前の男をただ純粋に憎むことができなくなっている自分に気付いていた。

 自身に忌まわしき呪いをかけた張本人であるのに。

 多くの仲間たちの仇であるのに。

 燃えたぎる焔のような怒りを、勢いのままぶつけることはできなくなっていた。

 激情をくすぶらせ続けることが、できなくなっていた。

 ……それは、理解することのないと思っていた彼の中に、こうして自分たちとの共通点を見出してしまったからか。

 

 

 花弁が彼方へと消えるのを見送ったファントムは、アルヴィスを振り返った。どこか期待をするような表情で。

 

 

「君は世界が好きだろう?」

「……ああ」

「君は自分たちの身勝手な理由で、君の好きな世界を汚す人間のことが、憎くないのかい?」

 

 

 アルヴィスは沈黙する。ファントムはさらに続けた。

 

 

「君が愛する世界は、くり返し壊されている。メルヘヴンの歴史を振り返ってみてもそうだろう? 大なり小なりどこかで争いが起きて、そのたびに人間は世界を傷つけ、壊し続けている。……それは、今は僕たちもだけれど」

 

 

 ファントムはまた、青く光る花々に手を伸ばした。

 

 

「僕らチェスは、そんな愚かなことを繰り返す世を儚んだ者たちの集まりでもある」

 

 

 触れた拍子に、花の奥から光がこぼれるように、ふわりと花粉が舞い上がる。

 

 

「君は、君が好きな世界を壊す人間たちを倒して、この美しい景色をいつでも眺められるようにしたいとは思わないの?」

 

 

 アルヴィスは自身を包む青い光の群れを眺める。近くで光る花のひとつに、手を伸ばしてみた。

 発光しているが、熱は発してはいないようだ。先程触れたファントムの指のように、ひやりと冷たい感触があった。

 するりと、花びらへ指を滑らせる。ほのかな甘い匂いが、誘い込むかのように鼻をかすかにくすぐった。

 頬がゆるむ感触。……こうして美しい世界に触れるたびに、アルヴィスの心には、いとおしいと思う気持ちが沸き起こる。

 そしてそれらが手をすり抜けるたびに、相反する感情も。

 

 

「……確かに、これはいつまでも見ていたいと思う。でも……」

 

 

 人間は身勝手だ。同じ過ちを繰り返すし、身に余る力を求め、争いを繰り返す。

 他者を蔑ろにし、自分本位に振る舞う愚かな行為に、憤りや怒りを覚えることは何度もある。

 けれど。

 アルヴィスは青い光と同じ、澄んだ眼差しを有したまま、面を上げた。

 

 

「この景色と同じくらい、オレは人が好きなんだ」

 

 

 美しい景色を、守ろうとする人がいるように。

 この世界の、営みが、人が好きだ。

 

 

 その気持ちは、変わらない。幼い頃から、ずっと。

 

 

「……それに散るからこそ、花は美しいと言った人もいる」

「それは、ダンナの言葉?」

 

 

 ファントムの問いに、アルヴィスは頷いた。

 失われるからこそ、守りたいと、愛しさを覚えるのだと。

 そうかつて教わった。終わりを恐れる自分に、かの人はそう言った。

 

 

「………そう」

 

 

 ファントムは淡々と、分かりきったような調子で相槌を打った。

 ぷつりと、また指で弄んだ花びらがちぎれてどこかへ落ちた。

 青い花々を映すアルヴィスの瞳に宿る光を見つめて、ファントムは苦笑いをした。

 まっすぐな、穢れなき光。

 純粋さを失わない、美しい命のかたち、そのもの。

 

 

「やっぱり、そうだよね。君は」

 

 

 しばしののち、ファントムはそう言い放った。

 諦めのにじんだ口調であったが、しかしさっぱりとした顔付きだった。

 その反応に、アルヴィスの心がにわかに揺れる。

 

 夜風が草原へと吹く。青い光が、二人の背中で一斉にゆらめいた。

 

 

「僕の前に立ったのが、君で良かった」

 

 

 ファントムは、先ほどまでの苦笑とはちがう種類の顔で笑った。

 本心からの微笑みだった。

 彼の笑みを認め、何故だかアルヴィスは、胸を鷲掴みされたような心地になった。

 

 

「……帰ろうか、君の居場所へ」

 

 

 アルヴィスの返事はないままだったが、ファントムはARMのリングを掲げた。未練はない様子で、魔力を練り込み始める。

 アルヴィスが迷う前に、アンダータが発動する。青い光の海の中心で、魔術の光が放たれた。

 まぼろしのような美しい風景が、彼方へと消えた。

 

 

 

 気付くとアルヴィスは、出発したレギンレイヴ城の側に来ていた。

 

 

「付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」

 

 

 側に立っていたファントムが、他意のない声音で言う。

 アルヴィスは黙って彼の顔を見返す。

 

「じゃあ」

 

 そう言い置いて、ファントムは立ち去ろうとした。

 しかしその腕を、ぱしっと、アルヴィスは反射的に掴んでいた。

 意外そうに自分を見つめる彼の顔を、アルヴィスは見上げる。

 

 

 …………本当は、どこかで同じなのだとわかっていた。

 だが、これが違う世界を選んだ定めか。

 

 

 呼び止めたまま沈黙していたアルヴィスは、唇を開きかける。

 

 

「……」

 

 

 何を、言えばいい?

 

 

「……」

 

 

 ———死ぬな、とでも?

 

 

 

「…………花」

 

 

 

 長い時間考えて、アルヴィスの喉の奥から出てきたのは、その一言だった。

 

 

 

「綺麗だった」

 

 

 

 逡巡するが、それでもその言葉を口にした。

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

 ファントムはアルヴィスの言葉を確かめるように、ゆっくりと一度まばたきをする。

 そして、そっと微笑んだ。

 おそらく最初で最後である、自分への礼に、微笑んだ。

 そのままアンダータが発動される。

 微笑が、夜に溶けた。

 

 

 

 ……何故、礼を言ってしまったのだろう。

 遠い夜空を見上げながら、アルヴィスは自問する。

 

 

 わずかでも心通わせてしまえば、いつか来るその時。

 この手で彼を討つ時に、より痛みを増すだけというのに。

 

 

 ……簡単だ、花への礼だ。

 たとえ殺さなければいけない、倒すべき敵であっても。

 

 

 あの美しい景色を。一人では知ることのなかった世界の顔を、目にすることができた礼を、言うべきだろう。

 今の理由は、それでいい。

 

 

 アルヴィスは手のひらを持ち上げ、覗き込んだ。最後に触れた彼の冷たい体温を、思い出した。

 

 

 

END

 

 

 

 

 

 

一度だけでも、アルヴィスとファントムが心通わす瞬間を描いてみたくてできた話です。

「青い花」の描写は、二人の色に似合う幻想的な光景にしたかったのと、アニメル初代OPの歌詞から。

ノヴァーリスの小説「青い花」は手が届かないほどの高い理想、夢の象徴でもあります。

ファントムにとって、アルヴィスは青い花かもしれない。そんなことを思いながら書き上げました。

余韻が残るような終わり方にできていたら嬉しいです。

 

2020.4.18