Re;birth  第八話 <後>



「あ、いたいた」

 ふいに後ろから声がした。砦の階段の方から、大人が一人現れる。

「あなたね、ナナシの連れって」

 ノースリーブのラフな格好をした、ボブカットの人物が寄ってきた。
 女性のような話し方だが、服装や立ち振る舞いから見るに、どうやられっきとした男性のようだ。そういう口調なのだろう。

「私はスタンリー。よろしく」
「アルヴィスだ」

 差し出された手と握手を交わす。握った掌はアルヴィスよりも節が大きく、指の所々に豆がある。武器を持つことに慣れている男の手だ。

「少し貴方に聞いてもらいたいことがあって。いいかしら」
 
 アルヴィスが首肯すると、スタンリーは彼に引っ付いている子供たちを見回した。
 
「アンタたちはモックたちの手伝いをしてくれる?」
「え、もうみんな帰ってきたの?」
「ええ、今回の依頼も大成功。報酬は早いもの勝ちよ」
「やったー!」
「行こうぜ!」

  小さくとも立派なギルドの一員である彼らにとって、お宝の魅力は抗いがたいらしい。数人を残して、子供たちはあっと言う間にその場から駆けていった。

「でも、ナナシお兄ちゃんのお客さんを……」
「十分に案内してくれたよ。ありがとう」

 困ったように見上げるピルンに、「行っておいで」とアルヴィスは微笑んだ。
 彼の優しい笑顔を間近で直視して、ピルンはほんの少し頰を赤らめる。

「……うん! ありがとう!」

 最後に頭をひと撫ですると、ピルンはまた嬉しそうに笑う。待っていたチャップたちと一緒に、彼女も出入り口の方へ走っていった。

「……ナナシもだけど、あなたも結構フェミニストよね」
「ふぇみにすと?」
「何でもない」

 一連のやりとりを見ていたスタンリーはしみじみと言ったが、きょとんとするアルヴィスに「天然か……」と呟く。痛みをおさえるかのように、頭に手をやった。
 しばらく明後日の方向を向いていたが、やがて気を取り直したらしい。スタンリーは顔を上げた。
 笑ってはいたが、真剣な顔つきだった。アルヴィスが同じように真面目な表情になると、彼は「そこまで構えなくていいわよ」と言いつつも話を切り出した。


「……知っているかしら。ナナシにはね、昔の記憶がないの」
「え……?」


 予想外の言葉が、叩きつけるような風と一緒にアルヴィスの耳へ届く。
 思わず言葉を失った。
 記憶喪失。ナナシが、記憶喪失。
 明るく屈託のない彼の笑顔が、脳裏をかすめた。

 だって、彼はアルヴィスにいろんなことを教えてくれていた。
 いつも安心させるように笑ってくれて。自身の不安定さなど、微塵も感じさせなかった。
 しばし動揺を隠せなかったアルヴィスは、声を絞り出すようにしてゆっくりとたずねる。

「……昔……というのは……」
「ルベリアに入る前の記憶。ナナシは数年前、山奥で大怪我しているのをボスが……ガリアン様が拾ってきたの」

 そうしてスタンリーは語り出した。彼の知る限りの、ナナシの過去を。


「なぜそこで倒れていたのか、怪我していたのかもわからない。生まれた場所や、自分の名前すらわからなかった。……思い出せないって、そう言ってたわ」


 スタンリーの目が、当時のことを思い出すように細められる。

「……ガリアン様はね、ナナシの前にボスをしていた人なの。ナナシがルベリアを出て行ったから、またボスに戻ったけれど」

 アルヴィスは砦の入り口での会話を想起する。
 ボス!とナナシに呼びかけていた子供たち。対して「もう違う」と笑いながらも返していた彼。

「ナナシって名前は、ガリアン様が付けたのよ。名がないからナナシと。最初は戸惑ってたけど、少しずつ皆に馴染んできたナナシは、ここでの仕事もすぐにこなせるようになった。筋が良かったんでしょうね。あっという間に大きな仕事を任されるようになって、それを毎回見事にこなしてきたわ」

 在りし日の光景が、スタンリーの脳裏によみがえる。
 夜の砦、ランプの灯りで照らされた室内に、張り上げたナナシの声。
 駆け寄る皆。笑い声。盃を交わす音。


「帰るところがなかったからか、ナナシはこのルベリアを愛してくれた。そんな彼になら、って思ったんでしょうね。長年ボスを務めていたガリアン様が、ナナシを新しいボスにって任命したの。私も皆も賛成したし、ナナシも、それを受け入れた」


 そこで、スタンリーの口調が苦いものへと変わる。彼らの転機を語る時だと、傍目にも察せられた。


「ボスに任命して、数ヶ月経った頃かしら……ちょうど、ナナシとガリアン様がいない時に里の近くに魔物が出てね。……何人かが怪我してしまったの」


 それは突然に起きた。熊に似た魔物が何体もルベリアの近くに現れ、砦の周囲に作っていた畑に入り込んできたという。
 原因はわからない。その年は例年よりも天候が荒れていたから、魔物たちも気が立っていたのかもしれないと、スタンリーは話した。
 畑を狙う小型の動物はいても、普段は魔物が出ない場所であったこともあり、ほかの手練れは賊対策のため砦の表側を固めていた。それが裏目に出てしまったのだ。
 大きな爪に切り裂かれる身体。倒れ伏す人々。折しもナナシは砦に一番近い街へ出かけており、ガリアンもあいにく、別の仕事の人員へと任命され不在だった。
 ボスであるナナシの不在は、ギルドのちょっとした用事のためでごく短時間のものだった。程なく戻ってきたナナシに、泣きながら子供たちが知らせ、彼が現場に駆けつけた時にはすでに被害が出ていた。
 だが幸いにも、死者は出なかった。魔物もナナシが追い払ったため、砦に再び現れることはなかった。


「あれは間というか、運が悪かったとしか言いようがないわ。ギルドとしての私たちの反省は、ボスたちがいない間の人員の配置。ボスやガリアン様がいなくても、残ったメンバーで砦を守れるようにチームを組むべきだった。だから、このことは私たちにとっては、忌まわしい過去じゃなく教訓なの。……まぁ、それは皆、無事だったから言えるんだけどね」


 自嘲気味に語り、スタンリーは苦笑した。そしてその笑みは憂いを帯びた、少し悲しげなものになる。


「……誰もナナシのことを恨んでなんかないのよ? でも彼は責任感の強い人だったから……だからここを出て行ったの。自分はここに居てはいけない、もっと強くならなきゃいけないって。私の知る限り、彼はずっと自分を責め続けてた」


 スタンリーたちがいくら言葉を尽くしても、ナナシの決意は変わらなかった。
 周囲には「一度広い世界を見てみたいから」と話していたものの、彼の出奔が先の事件のことを気にしての行動であることは、大人の誰もがわかっていた。
 理解できるからこそ、引き留めることはできなかった。
 そうして、ルベリアのボスは再びガリアンに戻り、ナナシは一人あてのない旅に出たのだという。
 西日がゆるやかに影の向きを変えていく。
 スタンリーの話を、アルヴィスは静かに噛みしめて目を伏せる。


 ……記憶をなくし、過去どころか、自分の存在すらもあやふやだったナナシ。
 そんな己を受け入れてくれた人々を、自分のせいで傷つけてしまった。
 その罪悪感を、あの笑顔の裏で彼はずっと抱えていたのだろうか。

 アルヴィスは、以前ヴェストリの鉱山で見つけたバングルに手をやる。
 彼と初めて行った宝探しの品だ。銀製のそれが、残照にちらりと光る。
 あれ以来、アルヴィスがひそかに宝物として、肌身離さず着けているもの。
 あの時、鉱山での冒険中に彼が話してくれた、トレジャーハンターとしてのやり方、生き方。
 かつてここで仲間たちとしていたように、自分とその道を辿ったのだろうか。

 ……どんな思いでいたのだろう。



 やるせないような気持ちで風に吹かれていたアルヴィスだったが、対するスタンリーはふと険しかった表情を和らげた。
 その気配を感じとり、アルヴィスは伏せていた目線を持ち上げ、彼に向ける。


「……でもほっとしたわ。貴方といるってことは、ボスが誰かが隣にいるのを許したってことよ」


 おだやかに微笑するスタンリーに、アルヴィスは数度、ふしぎそうに瞬きをした。


「今までずっと一人でいたのに、貴方とは一緒に旅をしているんでしょう? 」


 どう返したものか迷い、黙ったままのアルヴィスだったが、スタンリーは笑みを深める。納得しきっているかのように、何度かうなずいた。


「それくらい信頼しているんだわ。貴方のこと」


 彼の発言を、アルヴィスは己の中でゆっくりと咀嚼する。
 傍にあったナナシの顔を思い出す。惜しみなく向けられる、親愛の表情。

『信頼しているんだわ』

 スタンリーの言葉は、あたたかい旋律を持ってアルヴィスの胸に響いていた。





 その晩、ルベリアの砦では宴が行われた。
 依頼の成功と、ナナシとアルヴィスの来訪を歓迎するため、ルベリアの台所を預かる女性たちが大いに腕を振るった。
 子供たちは「いつもこんなご馳走ならいいのに」とぼやきつつ、香草の効いたチキンの皿を片端から平らげる。大人たちは宴のはじめから酒樽を開け、豪快な飲みっぷりで次々と空にしていった。
 宴の喧騒に紛れ、ナナシは少し離れたテーブルから、気安いギルドの面々にもみくちゃにされているアルヴィスを眺める。
 昼間別れて以来、彼としっかりと話はしていない。だが時折盗み見る彼がよこす視線は、どことなく、自分に何か問うた気な目をしていた。

(……やっぱ気にしとるよね)

 ぼんやりと思案するナナシは、薄く感じつつある酒を口に含む。麦酒の泡がぱちぱちと小さく舌で弾け、ほろ苦く口のなかで香った。
 ……ルベリアでのことを、アルヴィスに隠していたわけでない。
 ただ彼と出会った当初は、語るにはまだ早い過去だった。
 気に留めていないつもりでも。吹っ切れたつもりでも、傷口は癒えておらず、かさぶたのまま心をちくりと痛め続けていた。そこに他人が触れる余地はなかった。

 でも、今は。


「なあナナシ。改めて聞くが、里に戻る気はないか」

 空になりかけていたジョッキに、新しい酒が注がれる。
 視界に青いバンダナが映る。別のテーブルから戻ってきたガリアンが、ナナシの正面に腰掛けた。
 声を潜めた言葉に、ナナシは黙って酒を飲みつづける。
 それは今日一日のあいだ、何度か彼にされていた提案だった。だが再会した直後のような拒絶はしなかった。
 ナナシが話を聞く心持ちであることを確認すると、ガリアンはテーブルの下で足を組む。やんわりとした口調で続けた。


「戻る権利がないとか、そんなことは考えなくていい。あの時のことは、砦を留守にしていた私にも責任がある。お前だけに押し付ける気など、誰にもない。むしろ皆さびしがっているくらいだ」


 そのことは、ナナシもすでに承知していた。
 久々に会ったかつての仲間たちからの感情は、好意こそあれど、悪意は全くない。それは肌で感じられるものだった。もういいのだと、気にしすぎるなと面と向かってナナシへ言ってきた者もいる。
 昔も今も、ルベリアは自分に向けて開かれている。


「あとはお前の気持ちだけだ」


 黙々と口に運んでいた酒を止め、ナナシは宴の席を眺める。
 オレンジ色のランプが明滅するそばで、盛り上がる仲間たちのシルエットが床でダンスを踊るように動いていた。楽しげな笑い声が、いつまでも耳で反響していた。




 子供たちがとっくに床へと着いてしまった頃。客人たちをもてなす宴は、ようやくお開きとなった。
 大人たちの一部の者は、まだまだ飲み足りないらしい。テーブルに体を預け、たむろする彼らに挨拶をし、ナナシとアルヴィスは客人用にと充てがわれた部屋へ向かう。
 室内は、ちょっとした宿屋の部屋ぐらいはあった。砦の素材と同じ、木製のサイドテーブルの上にはポットと水のグラスも置かれていた。
 酒で火照った体を手で煽ぐナナシに、アルヴィスは「いるか?」とグラスを掲げる。
 言葉に甘えたナナシの水を入れ、自身はポットからお茶をマグカップへと注いだ。
 アルヴィスが差し出した水を、ナナシは勢いのまま一気に飲み干した。
 彼が落ち着くのを見計らってから、アルヴィスはベッドへ腰を落ち着ける。
 両手にカップを持ち、熱い中身を冷ましながら、ゆっくりと口に運ぶ。
 数分間、沈黙が降りた。たがいにまだ寝る気配はなかった。
 先に話を切り出したのは、アルヴィスの方だった。

「……このあいだの戦利品は、あの子たちにあげるために取って置いたのか?」
「……あー、あれか……」

 数日前にとあるダンジョンで手に入れた装飾品。お土産と称してナナシは砦の子供たちに振る舞った。
 彼の問いかけに、ナナシは一瞬頷こうとかと思ったが、止めた。

「……そういうつもりやったら、自分めっちゃええやつなんやけどな。ちゃうねん」

 子供たちは皆喜んでいた。結果としてそんな形になったが、正直に語ろうと思った。
 建前でなく、本音を。これまで口にしていなかった、自分の思いを。


「……本当は、帰るつもりなかってん」


 自分で思う以上に、ナナシの口からは空虚な声が出た。
 頼りないその声から、普段の明るい様子は全く感じられない。労わるように目を細めながら、そっと、アルヴィスは問いかける。


「……許せなかったからか?」


 自分を。そう続けたアルヴィスに、反射的にナナシは首を向ける。


「……スタンリー達に聞いた」


 短い言葉だったが、ナナシは意味をしっかりと理解した。張り詰めていた肩から少し力を抜き、こくりと頷いた。


「せや。許せなかった。皆が良いと言っても、自分は許せんかった」


 仲間たちを守れず傷付けたのに、その傷を忘れてのうのうと過ごすことなど許せなかった。里を出た時から、一生戻るつもりはなかった。


「……でも本当は、逃げようと思ったんかもなぁ」
「逃げる?」
「誰かの命を背負うのが、怖かった」


 ぽつりとナナシは言った。唇の先だけで呟いた、小さな声だった。


「自分の力ひとつで、仲間とか、大事な者(もん)の命が左右されてまう。己の力が及ばないトコで、簡単に消えてしまう。その事実に気付かされて、きっと怖くなったんや」
「…………」


 その恐怖は、記憶がないからこそ、余計に強く感じたのかもしれない。
 初めて得た、暖かい場所。唯一と言ってもいい拠り所。
 それを失うかもしれないという、恐怖。
 己の手をすり抜けそうになって初めて、自分の無力さに気づいたのだという。


「……それなのに、アルちゃんに声をかけたなんて、矛盾してるにも程があるな」


 ナナシは皮肉るかのように、苦笑いをした。


「……でもオレは嬉しかった」


 冷めてしまったカップをぎゅっと抱えながら、アルヴィスは言う。
 ナナシが笑みを消して、顔を向けた。
 アルヴィスは言葉を選びながら、精一杯の思いを告げる。


「お前が手を差し出してくれたとき、オレはとても嬉しかった」


 真摯な眼差しで見つめてくるアルヴィスを、ナナシは食い入るように見返す。


「……オレは、お前がどんな想いでここを出たのか、正確にはわからない。どれだけ悩んだのかもわからない。想像することしかできない」


 アルヴィスは膝の上のマグカップをサイドテーブルに置くと、軽く立ち上がって座り直しナナシとの距離を少し詰めた。
 眼前に来たアルヴィスの動作に、ナナシは軽く驚いたまま動けずにいた。
 かすかに戸惑うナナシの大きな手に、アルヴィスは触れた。


「でも今更、オレが知るナナシは変わらないと、思っている」


 ナナシよりも体温の低い、少しひんやりとしたアルヴィスの手のひらが、ナナシの手を包み込んだ。


「オレが知っているナナシは、調子がよくて、女たらしで、強くて………やさしい」


 アルヴィスは照れ臭そうに、はにかんだ。そして告げる。


「ナナシは、ナナシのままだ」
「……………さよか」


 ナナシは静かに微笑んだ。これまでで一番無防備な、安らいだ顔つきの笑みだった。
 それを受けて、アルヴィスの表情が柔らかくなる。
 ナナシはアルヴィスに握られている手を少し動かし、彼の手を握り返した。
 その動作はゆるやかなのに存外に力強く、アルヴィスはどきりとかすかに指を震わせた。


「……あのな、自分、前にアルちゃんが昔のこととか、思ってたことを話してくれた時、結構嬉しかったんや」


 彼がびっくりして手を引かないように、笑いかけながら。冗談めいたトーンで、しかし真剣にナナシは言葉を続けた。


「………聞いてくれるか? 自分の話も」


 迷うことなく、アルヴィスはしっかりと頷いた。

 それから宴の遠い喧騒がやがて静かになり、砦の誰もが眠りについた後も。二人は話を続けた。ナナシの口から語られる、ルベリアでの生活。過去。
 いつもの饒舌さはなりを潜め、とつとつと、ガラスに触れるような静かな語り口であった。時折相槌を挟みながら、アルヴィスは聞き続けた。
 さすがにずっと起きているので体が辛くなるからと、途中からナナシに促され二人ともベッドに横になったが、それでも話し続けた。
 明かりを落とした室内で、ベッドサイドのランプの光だけが光源だった。
 夜がそろそろ明ける頃。ようやく一区切りのところまで話し終え、ナナシは寝転がったまま体を伸ばした。


「なんやろ。こうして話してみると、あっさりしたもんやな」


 暗闇にひっそりと浮かんだほのかな明かり越しに、アルヴィスがこちらを見ていた。
 少しだけ眠そうだが、まだしっかりとナナシの話を聞いている。それに胸が温かい気持ちになる。


「……それなのに、ずっと怯えてたんやな」
「……それだけ、お前にとって大事なことだったんだろう?」


 ささやくような声音で、アルヴィスは言う。


「だったら当たり前だ。迷うのも、ためらうのも」
「こんな自分、呆れへん?」

 アルヴィスはふるふると首を振る。

「嬉しかった。ナナシの口からナナシのことが聞けて」

 心を占める部分が大きいほど、それに対する決断は自然と重いものとなる。
 だからいいのだと。ナナシの葛藤を受け入れ、肯定してくれるアルヴィスに、ナナシは微笑んだ。


「……今夜はありがとうな、付き合ってくれて。もう寝よか」
「ああ」

 ランプの明かりを消す。完全に照明のなくなった室内の端で、うすぼんやりと窓の方が光っていた。閉め切ったカーテンの向こう側で、空が淡く白み始めているようだ。
 ナナシは小声で話しかけてみる。

「……なぁアルちゃん。ホンマはな、つい最近までここに来る気はなかってん」

 まだ眠っていなかったらしく、アルヴィスがもぞりと動いた。うっすらと開いた瞳が、黒曜石のように煌めいた。


「けどこの前地図を見て、たまたま近くまで来てたのを知ったら、行ってもええかもなって思ったんや。……なぜかわかる?」


 アルヴィスは首を振った。暗がりであったが、ナナシは彼に笑いかけた。優しげな笑みだった。


「アルちゃんがいてくれたからや」


 はっきりと顔は見えなかったが、息を飲む音が聞こえた。
 暗くてよかった、とナナシは思った。今、自分がそれなりに恥ずかしいことを言っている自覚はある。
 けれど偽りのない本心を、伝えておきたかった。


「君が一つ一つのことに、ていねいに向き合ってる姿を見てたらな、目をそらし続けるのはいかんなって思ったんや。……ひとりやったら気まずくて、顔も出せなかったと思うわ」


 アルヴィスは瞬きもせず、しばらくじっとナナシを見つめていた。
 カーテンの隙間から漏れる光が、段々と明るさを増した。朝焼けの淡い明かりが、ほのかに室内へと射し込んだ。


「……よかった」


 おぼろな逆光の中、かろうじて見えたアルヴィスの顔は、うっそりと微笑んでいた。



 翌朝。といっても、数時間後。
 思い切り朝寝坊をした二人は、昼近くに子供たちに叩き起こされた。今日は旅の疲れをいやすことに徹し、明朝に出立することにした。
 もう数日いればいいのに、と引き留める者も多かったが、長居すると寂しくなる、と冗談めかしてナナシは提案を断った。
 そして翌朝。
 旅支度を整え、砦の出入り口へと来た二人を皆が見送りに来る。
 その中には、彼の姿もあった。

「……やはり行くのか」
「ああ」

 人混みの後ろから現れたガリアンのために、数人が端に寄って道を作る。近寄った彼の真剣な視線に何かを察したのか、気を利かせた面々が数歩分、二人から離れた。
 ガリアンと向き合ったナナシは、一瞬硬くなった表情をふっと崩した。


「……皆が自分のことを嫌わずに、今もファミリーやと思ってくれとる……ありがたいことや。でも、やっぱ戻ることは出来へん。ルべリアを出たのは自分のケジメやし」


 長い時間考えたが、やはり決意は変わらない。けれどそれを選べない理由は、過去ではなく他にある。


「……それにな。今はそれとは別に、この旅が気に入っとんのや」


 顔を上げたナナシは、晴れた空を思わせる吹っ切れた表情で言った。
 ガリアンは、ナナシの視線の先を追う。
 そこには子供たちと話すアルヴィスがいる。別れを惜しむ彼らにまとわりつかれるも、嫌そうな顔は少しもせず、笑顔で頭を撫でてやっている。
 その光景を見つめる瞳は、優しい形に細められていた。


「……いい顔をしているぞ、ナナシ」


 少し驚いたように振り向いたナナシに、ガリアンはバンダナの下の目を歪めて笑った。


「ならば私に止める権利はない。お前はお前の望むまま、行くがいい」
「ガリアン……」


 彼の言葉を噛みしめたナナシは、口元に笑みを刻む。心からしみじみと言った。


「……感謝するで、色々と」


 命を拾ってくれたこと。生かしてくれたこと。名前をつけてくれたこと。
 旅に出るというわがままを許してくれたこと。
 そしてこうして、また自分を送り出してくれること。
 その全てに。口に出さない想いも込め、ナナシは礼を述べた。
 意図を何もかも汲んだかのように、ガリアンは笑みを深めた。


「しかし残念だな。お前がいてくれると、私も肩の荷が下ろせるのだが」
「はは、まだ隠居するには早すぎるで」
「そうだな、お互いまだまだこれからだな」
「そのセリフ、めっちゃジジ臭いで」
「む……そうか」


 思わずたがいに吹き出してしまう。ひとしきり笑い合った後、ナナシは手を差し出した。


「アンタに会えてよかった」
「私もだ」


 砦の前で二人は、固く握手を交わした。


「お前たちの旅が、幸多きものであるように」


「さよーならー」
「またねー」


 山を降りていく二人に、ルベリアの者たちはいつまでも手を振っていた。
 何度も振り返っては、ナナシは大声で呼びかけた。



 ──もう戻らないと思っていた、かつての自分の居場所。
 そこは今でも灯台のように、ナナシの心にたしかな明かりを灯してくれている。
 取り戻せない過去も、消せない傷もある。
 しかしあたたかなその場所は、道しるべとして、いつでも暗いところを照らしてくれている。


「またここに来たいな」


 同じように砦を振り返っていたアルヴィスが言う。体を前に向けながら、ナナシは「そうやね」と返した。

 ──そのことを思い出せば。迷いながらも、この先も進んでいけるだろう。


 ……隣の彼と、一緒なら。



END






ようやくナナシの過去編にまで辿り着けました。
ナナアル痴話喧嘩編に続き、当サイトではかなり糖度高めなものになったと思います(笑)だいぶアルちゃんが積極的な感じです。
さて、ほのぼのパートはここまでです。この先は、クライマックスまでシリアス一色の予定です。
最終話までのプロットはもう何年も前からできているので、あとは書くだけです。
もう少し、お付き合いいただけたら幸いです。

2019.11.11