通り雨 <中編>
ナナシと名乗った男は、どうやら世話焼きのようだった。
アルヴィスがゆっくりと体を起こすと、収納用のディメンションだろうか、彼はどこからか水筒を取り出し、アルヴィスに水を飲ませてくれた。
素直に礼を言い、数口飲み干したあと、アルヴィスは再び眠りにはつかず洞窟の岩壁にもたれかかった。
冷たい岩肌は、熱のある身体に気持ちがよかった。体はまだ怠いが、タトゥの痛みはだいぶ治まっていた。
「具合はもうええの?」
「……ああ」
盗賊だという彼は、勘違いから攻撃をしかけたアルヴィスを見逃すどころか、ゾンビタトゥの影響で体調をくずし、倒れたアルヴィスを介抱してくれた。
その後も、警戒心からぶっきらぼうな態度をとり続けるアルヴィスに怒ることもなく、フランクに話しかけてくる。
しかし、パーソナルスペースまでは入り込んでこない。アルヴィスが答えにくい様子を見せたら、深く聞き出しはせずに、別の話題を振ってくる気遣いをする。
最初は何か裏があるのかと勘ぐっていたが、しばらく話したのちアルヴィスは「そういう性分なのだ」という彼の言葉を信じることにした。
だがこんな風に、他人に純粋に心配されることには慣れない。
……慣れないというより、久しぶりすぎて、どんな反応をしていいのかがわからない。
ナナシが置いたのであろう、洞窟の中ほどにある携帯用のランプには、ほのかな火が灯っていた。
その灯りに照らされる長さのある金髪。アルヴィスはふと、その光景に既視感を覚えた。
────凍えた夜にもきらきらと光っていた、あたたかな金色。
────懐かしい面影。
記憶とはまったくちがう趣の声が、再び話しかけてくる。
「なぁ、君はなんで旅してんの?」
アルヴィスはやや間を置いて返す。
「……答える必要があるか?」
「イヤやったら別にええよ?」
人によっては立腹しそうな返答にも、「ただの興味やし」とナナシは平気で受け流して笑う。
余裕のある態度は、アルヴィスよりもずっと大人な証だ。どこか包容力すら感じられる。
それにまた、同じような面影が頭に浮かんだ。
戦時中クロスガードとして皆を導いた、アルヴィスの父のようであった人。
ダンナさん。
彼に、なんだか似た感じがする。
なぜ?
アルヴィスは己の感覚に、自分自身で疑問を抱く。
……髪の色だけで、外見も雰囲気もぜんぜん違う、この男が?
すると、雨粒で湿った髪が少し鬱陶しかったのか。何の気なしにナナシが長い髪をかき上げた。
その仕草で、彼のまとう空気が風と一緒にアルヴィスの方へと流れてきた。
先程の感覚が、再度確信となって去来する。
────そうだ。
あの人は、誰にでもやさしくて。驚くほど、皆の中に馴染んでいたけれど。
空気は───匂いだけは、こちらに馴染むことがなかった。
日に焼けた笑顔から、かすかに香っていた匂い。
メルヘヴンとは違う、別の世界の匂い。
「……もしかして」
思わずこぼれた言葉を拾ったナナシに、アルヴィスは問う。
「アンタも、異界の住人なのか?」
バンダナの奥の瞳を点にして、ナナシは首を傾げた。
「……異界? 何やそれ?」
「……いい。何でもない」
きょとんとしたままの男に、やっぱり気のせいか、とアルヴィスは先刻までの考えを打ち消した。
この男は少し風変わりな、雨が止むまでの行きずりの同行者。
ただ、それだけの相手だ。
雨は絶えず、洞窟の外の世界へ降り注いでいる。
夜のカーテンと一緒に、遠い太陽を覆い隠したそれをアルヴィスはぼんやりと見上げた。まだ朝までは遠い。
こんな風に、もう何度夜が明けるのを待っただろう。
止まない雨はない。けれどいまだ本当の光は見えないまま、日々を過ごしている。
いっそ全て、投げ出してしまったらいいのだろうか。
いつか復活するチェスのことも、この身の呪いのことも、全部忘れて。
平和な場所で、静かに、穏やかに暮らす。
そうしたら野宿の度に、ベルに負担をかけなくてもいいかもしれない、
近づいてくる人間を、害するものだと、悪い人間かと疑わなくてもいいかもしれない、
熱のせいか、考えが後ろ向きになっている。それを自覚しつつも、アルヴィスはループする思考を止められずにいた。
こうまでして、なぜ自分はそれでも進もうとしているのだろう。
かぶりを振る。だめだ、立ち止まったら。
一度疑問を持ってしまったら、そこから抜け出せなくなる。
流されてしまう。楽な方に行ってしまう。それでは何もできないのだ。
…………何も?
…………何を?
……オレは、何をしたいんだ?
「アルヴィス?」
名前を呼ばれてハッとした。汗がにじむ額に手を当てて考え込んでいたアルヴィスを、心配そうにナナシが見ていた。
「どうした、しんどいんか?」
「あ……」
額に当てた手を動かして、そのまま汗を無造作に拭う。焦りが自家中毒みたいに、体中を巡って侵している感覚だ。
「だいじょうぶだ」と答えつつも、疲れのこもった溜め息をつくアルヴィスに、ナナシは少し苦笑するようにして言った。
「ええんやで、自分には隠さんでも」
「……」
「自分は通りすがりの、ただの盗賊や。そんな相手に、気ィなんか遣わんでええんやで」
アルヴィスはしばし不意を突かれた心地で、隣に座るナナシを見つめた、
遠回しだがこの男は、自分をいたわってくれているのだ。
それこそ「通りすがりのただの他人」であるアルヴィスを。
「…………みずを」
「ん?」
「水をもう一度、もらっても、いいか」
「ああ。はい、どーぞ」
快く応じたナナシに礼を返しながら、アルヴィスは水筒を受け取り少量だけ水を飲み込む。
「そんな遠慮せんで、もっと飲んどき?」
束の間考えたあと、促されるまま素直に再び口を付けた。程よい冷たさの水が、身に染み渡っていく。
水筒から口を離したアルヴィスは、それを返しながらナナシに話しかけた。
「……聞いても、いいか」
「ん? 何?」
「根拠のない、不確かなものを信じるのは、愚かだと思うか?」
曖昧な問いかけに、当然だがナナシは首を傾げてみせた。
「……なんやそれ。どういう意味?」
「……なんと言うか……」
……ダンナに似ていると、一瞬でも思ってしまったからだろうか。
普段は努めて秘めている感情が、思いがけず顔を出してしまい、アルヴィスは口籠ってしまう。
まるで小さい子供みたいだ、と自分のことながら思う。
いや、子供か。自分はまだ幼く、弱い。
こんなことで、簡単に揺らいでいる。
かの人とのほんの少しの共通点だけで、見ず知らずの人間に心を許し、己の裡なる部分を曝け出そうとしている。
膝を抱えるようにして、アルヴィスは掌をぎゅっと握り込んだ。両手の指がぶつかり合って、人差し指につけたARM同士が当たり、キンと澄んだ音を立てる。
それらは、アルヴィスがいつの間にか手にしていたARMだ。
髑髏がついたデザインのARMと、ごくありふれたダガーリング。
ダークネスである片方は、子供が身に付けるには物騒な印象も受けるものだ。痛みすら耐えれば、大概の相手を無効化できるので愛用している。
もう一つは、アルヴィスの手に収まる小ぶりな大きさのダガーで、どこかくたびれており古さを感じる品だ。錆びている箇所もあるので、普段使いはしていないが、なぜか捨てたいとも思わずに持ち続けている。
だがそれらを手に入れた経緯を、アルヴィスは実はよく覚えていない。
たぶん、強くならなければと、無我夢中で過ごしていた時に手に入れたものだと思うが。
どこから話したらいいのだろうかと、逡巡するアルヴィスの心情をまるで察したかのように、ナナシは静かに告げた。
「……ええよ、ゆっくりで」
知らず伏していた顔を、アルヴィスは上げる。
「君が話したいことなら、どんなことでもええよ。ちゃんと聞いたる」
落ち着きのある低めのトーンになった彼の声色には、真摯な響きがあって、アルヴィスは胸を打たれたような気持ちになる。
「自分これでも、君よりずーっと大人やからね。悩める青少年の話を聞くぐらい、朝飯前やで! 今日会ったのも何かの縁ってヤツやろうし……このコには、話せないこともあるやろ」
途中で声を潜めてベルのことを指した言葉に、アルヴィスは眠る彼女へと視線を移した。肯定も否定もできずに黙りこくるが、図星だった。
傍にいてくれる彼女には、言えないこと。
だってきっと、彼女はアルヴィスの痛みを、何倍も強く感じてしまうから。
もう泣くことをやめた自分の代わりに、目に大粒の涙を浮かべて、わんわん泣いてしまうだろうから。
そんな顔は、見たくなかった。
だから、涙を流す代わりに。
雨に溶かすように、アルヴィスはこの男に弱音を吐き出してしまうことにした。
どこか不思議な雰囲気を持った、夜が明けるまでのこの同行人に。
(続く)