ロストエバーブルー
ぞわっと、身体がざわつく感じがした。とっさにかばうように身を小さくするが、すぐに気持ちを切り替え、木製の椅子から立ち上がる。
意識を外へと向ける。海賊とも、海の魔物とも違う、邪悪な意志を持つものが近付いている。
船室に籠もっていたアルマは、机で書いていた航海日誌を置いて甲板へと飛び出た。
地底湖の岸辺に碇泊していた船には、自分以外の人間はいないはずだった。
だが、そこには人影があった。
いや、人の形をしていたが、それは人ではなかった。
まるでこの世の影と闇、暗いものの全てが集まったような……。
「お初お目にかかるな、アルマ」
「……貴方がオーブね」
慇懃な口調をした訪問者に、戸惑いを隠してアルマは毅然と答えた。
「ファントムから話は聞いていたわ」
黒い塊が渦巻く姿を見て、アルマは嫌悪するように眉をひそめた。
「なんて、禍々しいの」
「我は人間の醜い感情から生まれたからな。当然であろう」
オーブは低く嗤い声を上げる。その響きすら不気味であり、アルマは警戒心をさらに強いものにする。
「……人は醜い。人の飽くなき愚かな欲望が、このメルヘヴンを汚れたものにする。だから滅ぼすことにしたのだ。その方がこの世界のためにも良いであろう?」
「そう言って、彼を唆したのね」
「フフフ。理解しているならば話は早い。貴様には消えてもらう」
「………何ですって?」
アルマは、本能的な身の危険に後ずさりした。
「貴様とつるむようになってから、彼奴(あやつ)はまた人間らしくなってきておる」
「彼を、傀儡(くぐつ)にするつもり?」
「彼奴に人間らしさは不要。ここにきて、愚かで脆弱な人間の意志に傾倒しては困るのでな」
「ファントムは人よ!!」
「人ではない。彼奴は人を捨てた」
いっとき、アルマは呼吸を忘れた。
「……どういうこと?」
「先日、彼奴はゾンビタトゥを受け入れた」
「!?」
衝撃がアルマの頭を打ちのめす。オーブは愉悦を含んだ口調で笑い、彼女にとって残酷な事実を突きつける。
「わかるか、彼奴はもう貴様とは違う存在。未来永劫、朽ちぬ体でこの世界を蹂躙し、徘徊し続ける定めなのだ」
「そん、な……」
アルマは自身の体が崩れ落ちそうになる感覚を覚えた。
彼の日、背を向けた自分を、名残惜しげに見つめていた瞳が思い出された。
(あの後、貴方は選んでしまったのね……人ではない道を……)
あの時。もし自分が彼を引き止めていたのなら、何かが変わっていたのだろうか。
懐に忍ばせていた、銀色の鍵が重く胸にのしかかる。
「しかし貴様がいては、まだ奴の心が揺れかねないのでな。大人しくここで消えてもらおう。……嬉しいことだろう? それだけ彼奴にとって、貴様は大きな存在なのだ」
オーブの言葉は、アルマに何の喜びももたらさなかった。
半ば放心状態で立ち尽くす彼女にほくそ笑むと、オーブは実体のない手をかざした。
すると球体の下から影が現れ出て、アルマの首に取り付き、締め上げる。
空中に張り付けられるように、アルマの身体が浮く。つま先は甲板を離れ、下に薄暗い湖の水面が映る。
苦痛の声を漏らしながらも、アルマは必死に振りほどこうと、両手で首に触れる。
しかし影であるそれは掴めず、細い指は宙を掻くのみで無為に終わるだけとなった。
「……苦しいか。もし貴様が頷くならば、彼奴と同じ存在にしてやれることだってできるのだぞ。どうだ、愛する男と、永遠に歩む未来が欲しくはないか?」
締め付ける力がさらに増す。呼吸が辛くなる中、アルマはオーブを強く見据えた。
「……永遠なんて、ないわ」
首をかしげるように、オーブはわずかに身じろいだ。アルマはなおもオーブを睨み、声を振り絞る。
「貴方たちの言う永遠は、呪いよ」
「まだ言うか」
「ええ」
「だが彼奴は選んだ。もう遅い」
「……彼自身では、気付くことが出来ないかもしれない。でもいつか、彼に気付かせてくれる人が現れるわ!」
アルマは気丈に叫び返すと、痛みも恐怖も捨ててまっすぐに告げる。
「オーブ、貴方が人間の心から生まれた限り」
「貴方は私たち人間に勝つことはできない。絶対に」
次の瞬間、ごきっと嫌な音が響き、アルマの身体から力が抜けた。
オーブの黒い腕だったものが霧散する。拘束を解かれたアルマの体は、重力に従いゆっくりと傾いていく。
長く美しい蒼の髪が、ヴェールのように揺れながら落ちていく。
湖面へと、落ちていく。
船のはるか下方で、水音が立った。
だが彼女の落ちた湖には、何も上がらなかった。彼女の身体も、持っていた品も、何もかも。
「フン……」
オーブはしばらくその様子を見ていたが、やがて忌々しげに呟く。
「最後まで、強情な女だ」
かすかに悔しさの混じった響きが、主をなくした船に木霊した。
END
ずっと温めていた、アルマがオーブに殺される話です。
この話のアルマは、過去に書いた短編『愛の意味を』でディアナに、プリフィキアーヴェを預けられているという設定です。それをオーブに渡さぬまま、生き絶えたという結末になります。
アルマの死というのは、原作でもウェイトを占めている部分ですので、この短い文章でも書くのにものすごく頭を悩ませました。
また今回、導入を動的なものにしたくて、起承転結の「転」にあたるような描写からはじめました。
クライマックスまで、一気に駆け抜けるようにできていたら幸いです。
ご拝読いただき、ありがとうございました。
2017.11.14