冷たい海【15・終】
「またここにいたのか」
柔らかい光が差し込む森の中。
川のせせらぎが小さく音を立てる空間で、いつかのようにアルヴィスは大樹の幹にもたれていた。
「ギンタ」
草を踏みしめる乾いた音をさせながら近くへ向かい、彼の隣に腰を下ろす。
腰を落ち着けてややあってから、ギンタは少し声に心配を滲ませて聞く。
「……痛むのか」
らしくないギンタの様子に小さく笑いながら、アルヴィスは穏やかな声音で返した。
「……ああ。少し、な」
頭のどこかで予想していた通りの答えに、ギンタは少し渋い顔をする。
あの海の中で、彼が一人でこの場所に来るのは、具合が悪いのを隠すためだと知ったからだ。
しばらく押し黙って目の前の景色を見つめた後、ギンタはいつになく真剣な調子で言った。
「……辛かったら、言えよ」
不意に投げかけられた言葉に、アルヴィスは少し驚いた様子でゆっくりとこちらへ顔を向ける。
それを視界の端で捉えながら、ギンタは少し目を細めて続けた。
「言わないとわかんねーから」
ギンタの中で、そう昔のことではない記憶が蘇る。
ひだまりの中で見た儚い笑顔。
苦しげに絞り出された「死にたくない」という言葉。
真っ暗な世界で、たった一人泣いていた少年。
それら全てを、何も知らないまま過ごすのも、後で悔やむのも嫌だ。
もう、同じ間違いはしたくないから。
「お前の性格だから言いにくいだろうけどさ……心配ぐらいさせろよ」
彼を蝕む呪いを解くことも、苦しみを共有することも出来ない自分に出来ることはそれだけ。
でもそれが、彼の支えになるなら。
あの記憶の海で告げた言葉をまた言おう。
何度でも。
「お前は一人じゃないんだ。わかってるよな」
先程の驚いた表情のまま、アルヴィスはしばらくギンタを見つめていた。
だがやがてふっと力を抜き、柔らかな表情でしっかりと答えた。
「……ああ、わかっている」
「……本当にか?」
「ああ」
「本当に本当か?」
「本当だ。……なんだ、信用できないのか?」
「そーじゃなくてさぁ!」
訝しげな目で念を押すと、いつものクールな調子でからかわれてギンタは思わずムキになる。
そんなギンタの様子にアルヴィスはふふふ、と楽しそうに笑い出した。
「笑うなよ、俺は真剣なんだぞ!」
更に言い募ると、アルヴィスはますます笑ってギンタを煽ったけれど。
その綺麗な笑顔が、記憶の中の少年に似ていたから。
笑われたこともどうでもよくなり、なんだか暖かい気持ちで、ギンタもアルヴィスと一緒に笑った。
それから暫くたわいもない話をした後、ギンタはふと、アルヴィスが神妙な面もちをしていることに気が付いた。
もしや身体が痛むのかと思い、どうしたのかと問うがすぐに大丈夫という答えが返ってくる。
しかし再び神妙な顔でアルヴィスは黙りこくり、奇妙な沈黙が続く。
一人にした方がいいだろうかと思い、ギンタはすっくとその場に立ち上がった。
「オレ、そろそろ城に戻るな」
ゆっくり休めよ、と言ってギンタは草の上を駆け出した。
すると。
「ギンタ」
思いがけず呼びとめられて、数歩いった所でギンタは慌てて立ち止まった。
振り返った先で座るアルヴィスはまた黙っている。
相変わらず神妙な顔つき……どことなく困った様な表情で。
「身体は……我慢できない程ではないが、痛む」
普段のクールな様子とは変わって少し恥ずかしそうに、ゆっくりと告げられた内容にギンタは驚く。
こんな弱音を、今までは聞いたことがなかったから。
「だから、暫くここで休むつもりだ」
言葉を続ける度に、僅かに頬を赤らめたアルヴィスは段々俯いていく。
「その間……」
それでも、声だけは張り上げたまま。
戸惑いがちに、言った。
「少しだけ、背中を預けてもいいか」
ほんの少し、風が強く吹いた。
告げられた言葉の意味に、ギンタは目を見開いた。
そして、すぐに笑顔になると、頷きながら言った。
「ああ、いいぜ」
早足で木の根元に戻り、アルヴィスの横に回り込む。
すとんと腰を落とし、体の右側を幹に預けた体勢で待っていると、アルヴィスはやがてゆっくりと、ギンタの背に身体を預けてきた。
こつんと触れる背中。
そこから伝わる確かな温もり。
心のどこかが満たされるその暖かさに、一瞬アルヴィスは驚き、そして小さく微笑んだ。
苦しい時、悲しい時。
傍らにある温もりが人を繋ぎ止めてくれる。
例え、暗く冷たい海で溺れても、
必ず引き揚げてくれる人たちがいる。
今までも、そしてこれからも。
一人うずくまっている時にはなかった、胸にじんわりと灯る温かい光。
それが確かにあるのを感じながら、背中の温もりの心地よさにアルヴィスは目を閉じた。
END