トゥモローズ・マイルストーン5
それから三日間、クラピカは記憶が戻る前と同じように時間を過ごした。
仕事や緋の眼のことも気になったが、レオリオの気遣いを踏みにじるような気がしたので、自ら調べることは避けていた。
携帯は常に持ち歩いていたが、レオリオ以外からのコールが鳴ることはなかった。組(ファミリー)からの連絡がないのは、センリツ達がクラピカを気遣っているということであり、大きな問題がないという証でもあった。
意味もなく街を歩く。無目的に店を覗き、市場を廻る。
公園に寄り、ベンチに座る。空を見上げる。
……故郷と仲間を失ってから、胸には常に悲しみと怒りがあって。
その衝動を絶やさぬよう、目的のことだけを考えて生きてきた。
感情が時間で風化してしまわぬよう、常に何かしなければならないと努めて過ごしていた。
だからこんな風に「何もしない」というのは、クラピカにとって初めてのことだった。
ゆるりと流れていく雲。風の香り。太陽の眩しさ。
……忘れていた。こんなにも空が広かったこと。
「ただいま」
「おかえり」
クラピカが戻ると、レオリオは机で勉強をしていた。
だがクラピカは知っている。彼がクラピカの留守の時、同じ場所で、クラピカの求める情報を調べてくれていることを。
……考えてみれば、彼はこれまでもさりげなくクラピカを支えてくれていた。
自分がしたことを声高に主張する訳でもなく。傍で見守ってくれて、必要なときは、いつも手を差し伸べてくれた。
「……どうした?」
「……いや、何でもない」
記憶を失うまで、知らずにいたこと。
レオリオが席を外している間に、クラピカは先日本棚で見つけた本を探した。
学生向けの解剖学の書籍。書き込みが多いのは、やはり眼球の観察項目だ。
レオリオが特定の分野の専門医を目指しているとは、これまで聞いたことが無い。
それなのに、こうして眼について熱心に勉強しているのは、緋の目を持つ自分を案じてくれているからなのだろう。
自惚れではないが、そう確信があった。
ふいに、携帯に何件も入っていた留守電の存在を思い出した。
……気付かずにいただけだ。
そこにある優しさを。
クラピカは、本をそっと抱き締める。
数日前から芽生えた想いが、自分の中で膨らんでいくのを、胸の底で感じていた。
日が昇り、沈んで、また朝が来る。
「おはよう」と「おやすみ」が言える場所。言える人。
レオリオとの日々で当たり前のように訪れる、穏やかな事象のひとつひとつに、クラピカは幸福を実感していた。
休暇の終わりが、近付いていた。
その日の午後、レオリオはクラピカに行きたい所があるので、付き合ってほしいと話した。
了承したクラピカは、彼に連れられて出かけた。
行きがけにレオリオは花屋に寄った。白が基調の小さな花束を作ってもらい、それを持って街を歩く。
レオリオは、クラピカが知らない場所へ向かっていた。
子どもたちが遊び場にしている空き地を抜け、緩やかな坂道を上る。
だいぶ登ったと感じた頃、鐘の音が聞こえた。どうやら教会が近くにあるようだ。
辿り着いた場所は柵でいくつのかの区画に仕切られていた。ヨルビアン風の十字の墓が、いくつも並んでいた。
「……ここは?」
「市民の利用できる共同墓地さ」
レオリオはさらに歩く。墓地の端の、小高い丘の終わりまで来た。
切り立った崖のようになっており、海を見下ろすことができた。
崖際のある墓の前で、レオリオは立ち止まった。
「……誰の墓だ?」
「オレの親友(ダチ)さ」
レオリオは、悲しみと慈しみが混じった表情になった。
「オレが医者を目指すきっかけになった奴」
ピエトロという名前が刻まれた墓の前で、レオリオは昔の話をした。
幼馴染の親友と散々悪さをしたこと。彼が重い病にかかったこと。手術費を払う金がなかったため、彼が命を落としたこと。
「だからオレは医者になるって決めた。ハンターの資格はその為でもあるんだ」
(……知っている)
改めて聞くと、親友を死に至らしめた病気を恨むでなく、治さなかった医者を恨むでもなく。
自分が医者になろうと決意し、今もその夢を追うレオリオは、何て強いのだろう。
辛い過去を持ちながらも前を見ている彼と、復讐に生きる自分の違いに、クラピカは彼との距離を感じた。
後ろ向きな感情ではない。ただ彼が眩しくて、己の足下が暗く見えただけだ。
レオリオは墓石に積もった土埃や草を払い綺麗にし、花を供えた。しばらくその前にしゃがみ込み、墓標の名をじっと見ていた。
クラピカはその横で、レオリオの背中を見守った。
海の方から街の方へ、雲が流れていく。いつしか日射しは、柔らかな橙色へと変わってきていた。
影の長さが伸びてきた頃、レオリオが腰を起こす。
「……いいのか?」
「ああ」
そう言い、レオリオは出口に向かい歩き出す。
歩を進める度、草の擦れる音がする。クラピカはかねてからの疑問を訊ねた。
「……何故、私を連れて来たんだ?」
レオリオがクラピカを見た。
「……大事な場所なのだろう?」
「……だからだよ」
レオリオは小さく笑って答えた。
「お前がオレのこと覚えてても、覚えてなくても、ここには一緒に来たかったんだ」
そこまで言ったレオリオは立ち止まり、一歩後ろにいたクラピカへ振り向いた。
「クラピカ」
振り向いたレオリオの眼差しの深さに、クラピカは動けなくなった。
「お前がどう思ってるかは知らねぇけど、オレはお前に会えて良かったって思ってる」
「ハンター試験の時とかゼビル島の時とか、助けてもらったってのもあるが、それだけじゃねぇ。お前に金儲けのためだけにハンターを目指してるんじゃないだろうって言われたの、実はむちゃくちゃ嬉しかったんだぜ」
少年のような表情でレオリオが笑う。そんな彼から、クラピカは目を外すことができない。
「お前がいてくれて、本当に良かった。そのことを、ちゃんと伝えておきたいって思ったんだ」
「ありがとな、クラピカ」
夕焼けを背にして、出逢った頃と変わらない、優しい笑顔で、レオリオは言った。
「……付き合ってくれてありがとな。帰ろうぜ」
自分の言ったことに照れた様子で頭を掻いた後、出口を親指で示し、レオリオは再び歩き出した。
立ち尽くしていたクラピカだったが、気付けばその背中に向かい、駆け出していた。
背中に来た衝撃に、レオリオは止まる。
クラピカが両手の指で、レオリオの背中にぎゅっとしがみついていた。
「クラピカ……?」
レオリオが肩越しにクラピカを見る。
クラピカは何も言えなかった。
気持ちが込み上げてきて、何も言えなかった。
……私こそ。
君にどれだけ助けてもらったか。
……君に会えて、どれだけ救われたか。
溢れそうな想いを伝える手段(すべ)を、クラピカは持っていなかった。
彼が言ったのと同じ言葉を言うので、精一杯だった。
レオリオは、クラピカの言葉を聞くと、ゆっくり微笑んだ。その気配を、彼の背に顔を埋めながらクラピカは感じた。
そのまま長い間、二人はずっとそこにいた。
クラピカはようやく、己の気持ちを理解した。
……君が、愛しい。
→ 最終話