トゥモローズ・マイルストーン1

 

 

 

 ゴウンゴウンと、微かに聞こえる船の駆動音と、体に響く振動。

 窓の外で小さかった建物や木々が、少しずつ大きくなってきていた。地上が近付いている証拠だ。

 

「どうしたの? クラピカ」

「いや……」

 

 飛行船から景色を見下ろすクラピカは、どことなく緊張した様子だった。

 センリツは彼を見上げて、肩の力を解すように微笑む。

 

「大丈夫よ。これから会う人はあなたと親しかった人だし、それにとても優しい人だから」

「……ああ」

 

 硬い表情ながらも、クラピカは彼女に少しだけ微笑んでみせた。

 

 

 

 大陸にいくつかあるうちの、空港のロビーの一つでレオリオは立っていた。

 ガラス越しに見える天気は晴れ。アナウンスは、待ち合わせ相手が乗った飛行船が、予定通り到着したことを知らせている。

 様々な装いの人々で、ごった返す到着出口に目を凝らす。

 すると、通路の奥から目的の姿を見つける。

 手提げ鞄を持つ見慣れた独特の民族衣装と、子どものように小柄なシルエット。

 小柄な人物の方が、先導するように少し前に立って歩いている。

 

「よう」

 

 二人に向かってレオリオは片手を挙げた。気付いた彼女が「いたわ」と隣の人物に囁いて、こちらへやってくる。

 

「お久しぶり。突然連絡してごめんなさい」

「いや、いいってことよ」

 

 言いながら、レオリオは改めて数歩遅れてきた隣の人物を見た。センリツも、隣の彼を振り返る。

 声をかけた時から、じっと見つめてきている視線と、レオリオの眼がかち合う。

 猫のような吊り目。その裏に隠れた別の色を宿す、湖のような碧い瞳。

 

「よ、クラピカ」

 

 クラピカからは軽口も何も返ってこない。

 そのことに若干の寂しさを覚えるが、レオリオは顔に出さないよう努めて続けた。

 

「オレはレオリオだ。久しぶり」

 

 クラピカの唇が、たどたどしく名前を綴る。

 

「レオリオ……さん」

 

 後ろに付いた敬称に、レオリオは苦笑した。

 

「そう呼ばれるの、いつ振りだろうな。レオリオでいいよ」

 

 クラピカは「……はい」と素直に頷いた。

 

 

 今のクラピカには、記憶がない。

 

 

 

 

 クラピカが記憶を失ったと、レオリオが連絡を受けたのはつい先日のことだった。

 一週間ほど前、クラピカは仕事仲間であるセンリツ達を含めたノストラード組(ファミリー)の人間と、ボスであるネオンの護衛に付いていた。

 

 元々ここ数年に頭角を出し始めた若い組であったことや、ヨークシンの裏オークションの惨劇を逃れたこともあり、オークション以前もそれ以降も、組(ファミリー)は同じような若い他のマフィアからのやっかみ、つまりは妨害行為を度々受けていた。

 

 その日もある会食の帰り道、車に乗るために通りに出た途端、一行は何者かに襲われた。

 クラピカ達は襲撃者を難なく撃退したものの、一同の気が緩んだ所で、物陰に潜んでいた最後の輩がネオンを狙ったという。

 気付いたクラピカは咄嗟にネオンを庇い、頭に怪我を負い気を失った。

 

 一同は動揺したものの、すぐにその男を拘束することに成功した。クラピカの怪我も大したことはなく、事態は収束したかのように思われた。

 ところが、翌日の昼頃目覚めたクラピカは、自身に関する全ての記憶を失っていたという。

 自身がハンターであることも、その理由も。

 

(『全生活史健忘』。自分の名前、年齢、生育史、家族等自分に関する記憶を全て失った状態、か…)

 

 直接的な原因はおそらく頭部の外傷によるものだが、精神的要因も懸念されたため、下手に過去を話して刺激するのは好ましくなかった。

 特にクラピカの場合は、自分以外の親族や友人全てを虐殺されたという過去がある。

 その事実を知るのはファミリーの中ではセンリツだけだったが、普通に療養するにしても、マフィアの屋敷では難があった。

 そこで、暫定的ではあるが記憶が戻るまで、クラピカの面倒を見る人間として、センリツは彼の友人であるレオリオに連絡をしたのだった。

 

「貴方に全て押し付けるような形になって、ごめんなさい」

「何、困った時はお互い様さ。それにこいつがこんな状態になってるなんて、知らないままの方が嫌だからな」

「本当は私も付いていられたら良いんだけど……」

「あんたには組のことがあるだろう。大変だと思うが、クラピカがいない分もよろしく頼むぜ。いつでもこいつが戻れるようにな」

「……ええ、ありがとう」

 

 レオリオの気遣いに満ちた言葉に、センリツは微笑んだ。

 

「ああ、そうだわ」

 

 センリツはショルダーバッグから小さな箱を取り出す。

 

「これを貴方に渡しておくわ」

 

 開けて良いかと目で聞き、頷いたのを確認して蓋を開く。

 アクセサリーか何かだろうか。柔らかい布に丁寧に包まれている。レオリオは品を壊さぬよう、そっと指で開いた。

 

「こいつは……」

 

 箱に入っていたのは、クラピカがいつも身に付けていたイヤリングだった。

 宝石の一種か、紫色の小さな石が付いた、シンプルな形状のイヤリング。

 そういえば、再会した時から記憶を無くしたのとは違う、違和感のようなものを覚えていたが。

 これが耳に無かったからか。

 

「クラピカが怪我をした時に外れたみたいで。その拍子に、片方の石にひびが入ってしまったようなの」

 

 よく見るとセンリツの言う通り、片側の石に小さいがヒビがある。

 

「勝手に修理に出すのは悪い気がして。でも何だか、今の状態のクラピカに渡すのも躊躇われしまって……彼が記憶を思い出したら、貴方から渡してもらえる?」

「……わかった」

 

 レオリオはイヤリングを元通りにしまい、箱を大事に胸ポケットに押し込んだ。

 

「それじゃあ、私は行くわね」

 

 二人が会話している間、所在無さげに突っ立っていたクラピカにセンリツは声をかける。

 

「クラピカ、ゆっくり休んでくるのよ。私達のことは気にしなくていいから」

「……ああ、ありがとう」

 

 他人行儀な口調が抜けないながらも、礼を言った彼にセンリツは柔らかく笑む。

 

「何かあったら、いつでも連絡をちょうだい」

「ああ。気ィつけてな」

 

 組(ファミリー)に戻るため、反対方向のゲートへと去っていくセンリツを二人で見送ったあと、レオリオは隣のクラピカを見た。

 

「……さて、それじゃあオレ達も行くか」

「はい」

「敬語はいいよ。何かくすぐってぇ」

 

 と肩をすくめつつ、レオリオはひょいとクラピカが持っていた鞄を手に納める。

 

「あ、荷物……」

「いいって。怪我、治ったばかりなんだろ」

 

 普段のクラピカなら「気遣いは無用だ」と文句の一つや二つ飛んでくるかもしれない所だったが、

 

「……ありがとう」

 

 と言い、大人しく付いてくる。

 ヨークシンの時など、これまではクラピカが勝手に先へ行くのを、レオリオは後ろから追いかけているような立場だったのに。

(逆になっちまったな)

 レオリオはひっそりと苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

 

 濃紺のスーツとネクタイ。長身。

 面長の顔に、小さなサングラス。

 彼の前に立った瞬間、ふわりと香水の匂いがした。

 知らない香り。けれど、この感覚は、知ってる。

 この男を、私は知っている。

 

 

 レオリオと名乗った彼の背中を、人の波をかき分けてクラピカは追う。

 クラピカよりも二回り以上身長の高いレオリオの背格好は、人混みの中でもよく目立つ。

 見失うはずもなかったが、レオリオはクラピカがはぐれぬよう、ゆっくりとした歩調で進んでくれた。少し先に行ったかと思えば、また立ち止まり、こちらを振り返ってくれる。

 再会(ということになるのだろう)しても、彼に関する記憶をクラピカはまだ思い出せない。

 しかし短い時間でも態度や言葉の端々から、彼がクラピカを思いやってくれているのが十分に感じられた。

 

(……センリツの言っていた通り、優しい人なのだな)

 

 レオリオがまた振り返った。その背に小走りで向かい、クラピカは彼に追い付いた。

 

 

 

 空港の出口で、タクシーを拾い乗り込む。

 市街に向かう車内で、レオリオは自分のことをクラピカに話した。

 自分達は今年試験を受けて合格した同期のハンター仲間であることや、故郷であるこの国で一人暮らしをしていること。

 空港からレオリオの住む街までは距離があるらしく、海外沿いのハイウェイを車は走り続けた。

 午後の日射しが海を煌めかせる。後部座席からクラピカは外を眺めて言った。

 

「この国は、海が綺麗だな」

「そうか?」

 

 レオリオにとっては見慣れた景色であるが、クラピカは興味を惹かれたようだった。

 そういえば以前、彼は森の中に住んでいたと言っていたし、現在の仕事場もマフィアという職業柄、都会が主だ。彼にとって、海は珍しいものなのかもしれない。

 

「お客さん、良ければ窓開けてもいいですよ」

「ありがとうございます」

 

 ドライバーの言葉に甘え、クラピカは少しだけウィンドウを下ろす。

 途端に風が入り込み、クラピカとレオリオの髪を煽る。潮の香りが鼻腔をくすぐる感触に、クラピカは思わず微笑する。

 楽しげな様子に、レオリオは少し安心して笑みを漏らした。

 

 

 ターミナル駅がある通りを二つほど越えた交差点で、二人はタクシーを降りた。

 チップを渡すレオリオの後ろで、クラピカはドライバーにお辞儀をした。タクシーが走り去ってから、レオリオはクラピカを伴い歩き出す。

 数十分歩いて、辿り着いたのは小さなアパートだった。

 

「ここが、オレの住んでるトコ。エレベーターなんて贅沢なモンはついてねぇからな、階段を上がるぞ」

 

 という彼の発言通り階段を昇り、二人はレオリオの住む一室に到着する。

 レオリオはポケットからキーを出し、ドアを開けた。

 

「ほら、上がれよ」

「……お邪魔、します」

 

 靴を脱いで揃え、室内へ踏み込んだクラピカは中を見回す。

 沢山の本が詰まった本棚。タンス。机。

 

「荷物ここに置いとくぞ」

「……ああ」

 

 レオリオの言葉を、クラピカはどこか上の空で聞いた。

 部屋の中央に据えられたダイニングテーブルとは別に、もう一つ机があった。ここにも何冊も本がある。それとノートが数冊にシャーペン。

 壁際にあるベッドは身体の大きい彼が使うからか、普通の物よりやや大きい気がした。

 そして、ささやかな面積のベランダ。

 

「とりあえずコーヒーでも淹れるか。お前もそれでいい?」

「……ああ、うん」

 

 空には夕焼けの色がにじみ始めていて、光が僅かにオレンジ色を帯びていた。

 ベランダから暫し外を見ていたクラピカは、レオリオの声に部屋へ戻る。

 コーヒーメーカーに入ったままのフィルターを捨て、水洗いした後、新しい物を準備し始めるレオリオにクラピカは訊ねる。

 

「コーヒー、好きなのか?」

「ん? ああ。結構」

 

 ゴーッと液を抽出する音がして、室内にコーヒーの芳香が漂う。

 

「そういや、お前は紅茶の方が好きだったな」

「そうなのか?」

「ああ。コーヒーを頼む時もあったけど、一緒にいる時はよく紅茶を飲んでたな。あと馬茶か」

「ばちゃ……?」

「……字変換できてるか? 馬茶だよ、馬茶。ジャポンの字で『馬』に『茶』って書く馬茶」

 

 訝し気な顔をするクラピカにレオリオが説明すると、クラピカはすぐに「ああ」と納得した声を挙げた。

 元々の知識は失われていないのだろう。好きだった、といった記憶が失われただけで、嗜好もそう変わっていないんじゃないだろうか。

 飲めばまた何か思い出すかもな、今度買ってきてやろうかとレオリオは思案する。

 

「適当に座ってろ」

 

 そう言われたクラピカは、視線を居間に戻しダイニングテーブルに付こうとした。

 だが、もう一つの勉強机らしき方に気を惹かれる。積まれた本の脇に、何かがあった。

 写真だ。クラピカと、レオリオと、年下の少年が二人。

 クラピカは写真立てを手に取って、じっと見つめる。

 

「あ、それな」

 

 コーヒーを用意して来たレオリオが言った。 

 

「空港で別れる時に撮った写真さ。覚えてるか?」

「いや。……この二人は?」

「ゴンとキルアだ」

 

 ハンター試験を共に受けた仲間だと、センリツや道中レオリオから聞いた名だ。

 クラピカの持っている携帯にも、レオリオのと同様に二人の名前は入っていた。

 試験の時は四人でつるんでいたのだと語るレオリオの話を、写真を見ながらクラピカは黙って聞いていた。

 思い出すことのできない歯痒さがあるのだろう。クラピカの顔はほんの少し、悔しそうに見えた。

 

「ま、ここには療養に来たんだから、ゆっくり過ごせばいいじゃねーか。そのうちきっと思い出すさ」

「……ありがとう」

 

 クラピカはレオリオの差し出したコーヒーを受け取る。月並みな言葉だったが、クラピカはゆるりと微笑した。

 レオリオの淹れたコーヒーは、クラピカに好評だった。レオリオはまだ二流であるが豆にも拘りがあることや、ミルを使用していることなどを話した。時折クラピカに聞かれて、思い出話もいくつかした。

 マグカップに並々と注いだコーヒーを飲み干す頃には、すっかり日が暮れていた。

 

「さーて、飯でも作るか。クラピカ、手伝ってくれるか?」

「わかった。何をすればいい?」

 

 夕食は簡単にパスタとサラダを作ることにした。市販のパスタソースを使う。クラピカにはサラダを担当してもらった。

 料理に関しては門外漢だったレオリオだが、ハンター試験後は少し自炊を意識するようになった。もしかしたら、あの強烈な試験官のせいかもしれない。

 程なく夕食は完成した。クラピカもいることだし、近日中に食材や日用品を仕入れる必要があるなと考える。

 

「明日は買い物に行かないといけねぇなぁ。ついでにどっか行きたい所あるか?」

「行きたい所?」

「お、そうだ。海行ってみるか?」

「海?」

「ああ。タクシーの中から見てただろ、お前。ちょっと歩くけど、行けないってほどじゃねーしな」

「……そうだな。行ってみたい」

「よし、決まりだな」

 

 そう言うと、クラピカの表情が明るくなった。

 

 

 交代で風呂に入った後、明日の予定もあるので二人は早めに休むことにした。普段は夜更かしをしつつ勉強に励むレオリオだが、クラピカもいるので今夜は自分も早く寝ることにする。

 

「お前はオレのベッドを使え」

「君はどこで寝るんだ?」

「オレは客用布団があるから、それを床に敷いて寝るよ」

「……他にベッドは無いのか?」

「お前、オレがそんなに贅沢な暮らししてるとでも思うのか?」

「……なら、私が布団で寝よう」

「いいって別に。お前怪我治ったばかりなんだし」

「大したことはない。包帯だってもう取れている」

 

 確かにクラピカの言う通り、彼の頭の怪我は既に塞がっている。レオリオも先程断りを入れて状態を見たが、刺激しなければこのままでも平気だろうと判断できた。

 しかし。

 

「オレが気にする。お前はベッドを使え」

「……だが世話になるというのに、部屋の主を差し置いて使うというのは、些か心苦しいものがある」

「あんま難しく考えんなよ。オレが良いって言ってんだから」

「…………」

 

 考え込んでいたクラピカは、名案を思い付いたとばかりに顔を上げる。

 

「よし。ならば私も床で寝よう。それで解決だ」

「はあ? 何でベッドあるのに使わねーんだよ。勿体ねーじゃねぇか」

「君は私に、屋主を差し置いてベッドを使うという、非常識な振る舞いをさせるつもりか?」

 

 ……言っていることは殊勝なのに、何でこいつ偉そうなんだろう。

 

「お前こそ、オレに怪我人に床で寝ろと言わせるつもりか」

「ここは君の家だろう。私がベッドを使うのは筋違いだ」

「ったく、強情っぱりが」

「君こそ、頭の固い奴め」

「そりゃこっちの台詞だ。記憶なくても石頭なのは変わんねーな」

「……」

 

 クラピカはムッとした様子でレオリオを睨んだ。 

 その見慣れた表情を見ていたら、何だかもうどうでもよくなってしまった。

 

「あ〜、わかったよ。オレの負けだ」

 

 レオリオは折れた。

 

「客用はお前が使え。で、ベッドにある奴を下ろしてオレも寝る。それで解決だ」

「それなら、私も異論はない」

 

 クラピカは満足そうに言った。

 狭い床に布団を二つ並べた。何か修学旅行みたいだなと、レオリオは独りごちた。

 

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 

 部屋の電気のスイッチを倒すと、室内が闇に包まれる。

 しかしカーテンの隙間から入り込む街灯や月の光で、ぼんやりとだが部屋の中は見渡すことができた。

 レオリオはしばらくクラピカの寝顔を見ていたが、やがて自分も眠りについた。

 

 

 静かな夜の闇に、寝息が混じる。

 クラピカは横たわったまま目を開けた。

 向かい側で、かーっといびきを立てるレオリオの顔をクラピカは見つめる。サングラスを外した顔立ちは意外にも端正であったが、本人の振る舞いや言動、そして今の様子からは、まるで三枚目にしか見えない。

 しかしクラピカは、彼と会ってから自分の中の不安感が消えていることに気付いていた。

 

 ……記憶を失っているのだと告げられてから、己の立っている所が不安定な、地に定まっていないような、そんな感じがあった。

 けれど空港でレオリオに名前を呼ばれたら、すとんと腑に落ちたような、そんな心地になった。

 自分は「クラピカ」なのだと、自然と思えた。

 その後も彼の前では、気が付けばこの数日間したことのない振る舞いをいくつもしていた。先程みたいに意地を張ったり、軽い口喧嘩までするなんて。

 自分で自分の変化が信じられない気もするが、同時にしっくりもきていた。

 

(彼といると、安心できるということか)

 

 知らず口元を緩ませて、クラピカは心地良い闇に身を委ねたのだった。

 

 

 

 

 

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