滲まぬもの

 

 

 

 ハンター協会本部ビルの会議室。広々とした部屋の中レオリオとチードルは机一つ分を開けて向かい合って座っていた。

 レオリオは乗船する医療チームの中で唯一医学生として乗船するため、渡航数ヶ月前より直属上司であるチードルから連日猛特訓を受けていた。

 医療者として頭に叩き込んでおくべき知識、技術、そして心構え。履修済みの大学の講義と実習だけではカバーしきれない現場での振る舞いをも叩き込まれていた。容赦ないしごきともいう。

 全ては主任医師であるチードルの右腕として動けるようになるためである。

 もっとも、これから予定している渡航では、通常の医療現場よりも過酷な環境であることが想定されるために、求められる技量も通常とは比べられるものではないが。

 

(普通の病院実習だったら、すでに及第点は超えているけれどね)

 

 しかし妥協するわけには行かない。目的のためにも、彼自身のためにも。

 二人とも多忙な身であるため、一日ごとの開催時間はそこまで長いものではないものの、講義されるのは時間と比例しない膨大な量であった。

 初日こそ「密度が濃くてありがたいぜ」と言っていたレオリオだったが、連日続くとだんだんと口数も減ってきていた。

 それでも弱音は吐かずに、ハイペースな特別講義に必死に喰らい付いてきている。

 今日も全力で机に向かう彼の顔に疲労の色が浮かんできたのを認め、少し休憩しましょう、と言い置いてチードルはテキストを閉じて机に置いた。

 各々水分補給をしたのち、十数分ほど休憩をとる。一度席を外したレオリオは、しばらくして携帯電話を片手に戻ってきた。

 どっかと大袈裟な仕草で席につき、面白くなさそうな様子で携帯をテーブルに滑らせるようにして投げ出した。

 

「……大丈夫かしら?」

「ああ、問題ねぇ」

 

 どこかむくれた気配も感じる表情は見慣れたもので、知己の彼との連絡を取っていたのだと察する。

 大方、懲りずに現状報告をしてすげなく会話を打ち切られたか、あるいは。

 微笑ましさすら感じる光景に少しだけ表情を緩めたチードルだったが、咳払いをすると再び口を開く。

 空気が変わったのを悟り、レオリオもまた姿勢を正し表情を引き締めた。

 

「……貴方には、これも説明しておかなければなりません」

 

 これまでの迷いのない語り口とは、少し違ったトーンだった。

 ほんのわずかに、声にためらいが含まれているような。口調は変わらないものの、彼女の声質は常よりもかすかに固いものになっていた。

 先ほどまでとは講義内容が変わったことを感じ取り、テキストはあえて開かずレオリオは彼女の言葉を待つ。

 

「貴方もご存知の通り、私たち医者は……医療者は基本的に、生命倫理の四原則に従って医療を行います」

 

 患者自身の意思を重視する「自立性の尊重」。

 患者に危害を加えず、またより侵襲の少ない方法を選択する「無危害」。

 医療従事者ではなく患者を主として最善を尽くす「善行」。

 そして全ての患者を平等かつ公平に扱う「公正」。

 これらの原則に従い、医療者は倫理的な問題に直面した際、どのように解決すべきかを判断することとなっている。

 

「災害時などの緊急事態の場合、限られた医療資源をいかに適正に配分するかを決めるのも私たちの仕事です。その場合、私たちは命の優先度を決めなくてはいけません」

「トリアージだな」

 

 医療現場によっては、患者の重症度に応じて医療を施す優先順位を決めることが求められる。

 資源や人手が潤沢であるならば、その必要はないだろう。しかしブラックホエール号という閉鎖空間の中、外部からの資源供給が限られた状況で不測 の事態が起こった場合、二人の危惧する状況も十分に起こりうる可能性がある。

 

「一度に多くの患者が発生した場合、より重症度の高い患者は見捨てる判断も必要ってことだよな。……それはもちろん、覚悟している」

 

 カキン側が用意した医療人材・資源がどれだけのものか。計画書は提出されているものの、明らかに急拵えで実際にはあまりリソースは割かれていないだろうというのがチードルとミザイストムの見解だ。

 その状況下で、残す命の選択を迫られた場合。より合理的な判断をしなければならないのは、医療者の心身にとって多大なる負担にもなりうる。

 災害現場での経験がトラウマとなり、その後医業に従事できない者も出るほどに深刻な問題だ。

 

「ええ。……でも今回私が言いたいのは、それだけではないの」

 

 訝しげに眉を動かしたレオリオに対し、一度息を吸って、チードルはその言葉を口にした。

 

 

「私が今日、貴方に伝えなければいけないのは『医療も政治である』ということです」

「政治……」

 

 

 単語を繰り返したレオリオに、チードルは首肯した。

 

 

「私たちには、先ほどの原則に基づき、法のもと、全ての人に対し平等に同じ医療を提供する義務があります。本来、命の価値は同等であり、医療資源の配分は医学的な視点以外で判断することはあってはならないことです。……本来ならば!」

 

 

 やや語気が荒くなっている己を自覚して、チードルはいったん瞳を伏せる。

 

「けれど、私たちの渡航にはさまざまな人や組織の思惑が介在しています。その中で今回の我々の雇い主であるV5からは、明確に『生かすべき命』の指示も出されています」

 

 なるほど、とレオリオはつぶやく。

 暗黒大陸への渡航の生き証人として、生存を約束されている国際渡航許可庁長官、特務課主席管理次官etc.

 公的な書類に明記されていなくても、このミッションにおいて優先されるべき命というものは確かに存在する。その時点で、命の価値は平等でない。

 

「またカキン王族と王立軍の動向にも、少なからず影響を受けるでしょう。私たちハンター協会の医療チームが滞在するのは、中央病院の位置する第三層。王族の居住する第一層ではないから、接触の機会は少ないでしょうが……」

 

 王族の募集したボディガードとして雇われたハンターたちから、今回の渡航においてカキンの王位継承をかけた戦い……継承戦というものが存在するという情報が入ってきている。

 またクラピカたち裏社会に精通する者から、一部のカキン王族とマフィアとの密な繋がりも指摘されている。部外者であるチードル達には、カキンという国の勢力がどのような力関係で成り立っているか、正確な状況までは把握しきれていない。

 

 

「状況によっては、より『合理的』な判断をする必要があるかもしれません。……その時、私は貴方に、その指示をしなくてはいけないでしょう」

 

 

 国際関係にまで発展しかねない火種をいくつも抱えている中、本来中立であるべき医療の原則を、時と場合によっては曲げなければいけない……暗にそう告げるチードルの表情は、悔しさと共にレオリオへの謝意に満ちていた。

 それは潮流を見極め、より多くの善を為すために清濁合わせ呑むことを強いられた、組織の上に立つ者としての苦悩だ。

 ましてやチードルの本職は医者であり法律家である。「法は倫理の最低限度」が基本原則である彼女達の世界で、その守るべき最低限の倫理すら遵守することができないというのは、塗炭の苦しみだろう。

 

「……わかった」

 

 やや長めの沈黙の後の返しに、チードルは苦々しさを抑えながら両眼を閉じた。

 しかし続いた言葉に、その瞳は再び開くこととなる。

 

 

「アンタのことだから、カキンの法律とかも全部頭に入ってるんだろう。それでも儘ならねぇことになった時は、オレが動く」

 

 

 虚を突かれた表情は、彼女本来のものだ。片肘を机に置いて身を乗り出し、自身を親指で指し示しながらレオリオは続ける。

 

 

「一介の医学生が場をわきまえずしゃしゃり出てきて、指示を聞かず勝手にやったことにすればいい。そうしたら協会にも迷惑かからねぇはずだ」

 

 

 話しているのは物騒な内容にも関わらず、レオリオは不敵に笑ってみせた。

 

 

「いざとなったらオレを切り捨てろ」

「…………」

 

 

 眼鏡の奥の瞳を丸くして目の前の男を見つめていたチードルだったが、やがて眼鏡のツルを押し上げ、位置を直した。

 手元に置いていた分厚いテキストを持ち上げ、すばやく前にグッと押し出す。それはパシンといささか派手な音を立てて、レオリオの頭に見事にクリーンヒットした。

 

 

「……そうさせないのも! 私の仕事です!」

 

 

 いてっ! と零したレオリオを睨み付けるように見ながら、チードルは言った。

 

 

「私は貴方の上司であり主任医師です。部下である貴方の行動の責任は私が持つのが当然です」

 

 

 額の辺りをさするレオリオは罰の悪そうな顔をしている。出過ぎた真似をしたかと反省しているのだ。

 けれどまだ若く青い彼だからこそ言えた理想でもある。いっそ羨ましさすら感じる真っ直ぐさ。

 

 

「……とはいえ。もし私達が、人として当たり前のことを見失いそうになったなら。貴方は躊躇うことなく動いてください」

 

 

 そのあとは、私の仕事です。

 

 

「……おう」

 

 

 おおやけに言えない内容であるが故、小さい声ながらも確かに返したチードルの言葉に、レオリオはニッと口元に笑みを浮かべる。

 サムズアップをしてみせた彼に、こぼれそうになる微笑を隠し「話は終わりです」と彼女は声を張り上げた。再びテキストを開くように告げ、間髪入れずにページ番号を述べると慌てた様子でレオリオは勉学に戻る。

 そんな彼のつむじを眺めながら、チードルは密かに口角を上げつつ講義を再開した。

 

 

 

END

 

 

 

 

 

 

連載再開したハンターで、レオリオの再登場した場面から触発されて書いたもの。

医療者として、ハルケンブルグの治療を最後まで続けたかったであろう彼の真っすぐさとか、重責のあるチードルをも思いやれる懐の深さが出るような話を目指しました。

タイトルは色んな思惑にも揺るがない、彼の強さをイメージして直感で付けました。直球すぎたかなと思いつつ、サイト掲載時に本文は手直ししましたが結局そのままです。

 

 

初出:2024.11.11 privetter

手直し・サイト掲載:2024.12.20