波間の陽炎
暗い夜の色を飲み込んだ海が、軍艦島に波音を絶え間なく響かせていた。
「——なぁ、起きてるか?」
レオリオの声に、クラピカは身じろぎする。明かりを落とした室内でもその気配は感じられた。
「……先程は強く殴りすぎた。すまない」
クラピカはレオリオに背中を向けたまま、消え入りそうな声で言った。
レオリオの頬の痛みは、とうに引いていた。
「……殴ったこと自体への謝罪は?」
「ない」
クラピカはきっぱりと言った。
「あれは下劣な格好で出てきたキミが悪い」
「下劣って……おめーだって風呂入ってる時はすっ裸だろーが。オレはただそんまま出て来ただけだっつーの」
我ながら品のない反論だと思いつつ言うと、クラピカがこちらを向き睨む気配がしたので、レオリオは口をつぐむ。
「へーへー、オレが悪ぅございました」
レオリオが黙ると、また波のさざめきだけが室内に響く。
波は荒々しく崖にぶつかり、岩を砕く。けれど揺りかごの様に、一定のリズムで静かに島を揺さぶっていた。
波音の合間に、クラピカがぽつりと呟いた。
「……マッチ……」
「ん?」
「ありがとう。おかげで仲間の弔いをすることができた」
レオリオの脳裏に、数時間前の光景が蘇った。
海の上で燃える赤い船。それを見つめる、クラピカの背。
「……なに、いいってことよ。まさか全部使っちまうとは思わなかったけどな」
「……すまん、試験が終わったら新しいものを買って返そう」
「いいって別に。んな高いモンじゃねーしな」
自他ともに認める守銭奴らしからぬ、何ともお人好しの台詞だ。その言葉に、暗がりだがクラピカが表情を和らげたのがわかった。
ごろんと体勢を変え、頭の下で腕を組んだレオリオは、天井を見上げてしばらく思案していたが、不意に身を乗り出した。
「お前、酒飲める?」
「え?」
クラピカが拍子抜けした声をあげる。
「別に飲めないことはないが…」
「よし」
レオリオは起き上がると部屋の灯りを点けた。ベッドの下をごそごそと探り、酒瓶を数本取り出す。
クラピカは身を起こしながら、感心したような、呆れたような顔で言った。
「……こんなのどこに隠していた」
「なに、キッチンの奥の酒蔵からちょ~っと拝借」
「……全く」
クラピカがベッドから降りる。反対するのかと思いきや、
「グラスが必要だろう。取ってくる」
と言って部屋の入り口へと歩く。彼も乗り気なのだとわかり、「ついでにつまみとかあれば持ってきてくれよ」とレオリオは声をかけた。
「わかった」と、周囲を憚り声を低めたクラピカは、音を立てずに廊下に消える。
やや眩しかったので、レオリオは灯りを少し落とした。数分後、クラピカがグラスとつまみの入った袋を持って戻ってきた。
「皆眠っているようだな。とても静かだ」
「あのじーさん達は?」
「部屋の明かりが消えていた。起こすのも悪いと思ったから、勝手に借りてきた」
クラピカは二人のベッドの間にあるサイドテーブルの上に、グラスと食堂から持ってきたつまみのナッツ類を置いた。
「無理もねぇさ。この数日間本当にハードだったからな。ようやく休めるかと思ったら、今日はずっと宝探しをやらされたし。やれやれ、我ながらよく生き残ったぜ」
「うむ。だが、さすがに試験も折り返し地点まで来たはずだろう。あと一息だ」
「そうだな。お互い最後まで勝ち進もうぜ」
レオリオは瓶の蓋を外し、グラスに中身を並々と注いだ。つまみの袋を横から大きく開けて広げる。
ベッドの上にあぐらをかいて座ると、向かいのクラピカもそれに習った。
「ほい、乾杯」
レオリオが掲げたグラスに、クラピカは少し慣れない様子でグラスを突き合わせる。
その反応を内心面白く思いつつ、レオリオは酒をぐいっと半分ほど飲み干した。
「ほ~、結構うめぇなこれ」
「……美味いのか?」
「ああ」
グラスに口を付けると、クラピカはなめるような量を一口だけ飲み、奇妙な顔をした。
「私にはよくわからない……」
「まだまだお子ちゃまってことだな」
レオリオが茶化すとクラピカはむっと眉をしかめ、一気に飲み干した。
「お、いい飲みっぷりじゃねーか! ほれ、もう一杯」
「……苦い。なんだか鳩尾が熱い」
「そういうもんなんだよ、酒(これ)は。そのうち慣れるさ」
「君はよくこんな物を飲めるな」
「オレの国では酒は十六歳から解禁されているからな。ま、オレは十ニ歳の時から飲んでたが。おおっぴらに飲めるようになった頃には、もう味がわかるようになってたぜ」
「勉強はどうしたんだ」
「これも勉強さ。社会勉強」
悪びれないレオリオにあからさまに呆れた表情をした後、クラピカはまたグラスを傾けた。
二人はしばらく酒を飲みながら、これまでの試験はどうだ、他の受験生はどうだといった話をした。
「……アレ、良かったのか?」
「何がだ?」
「お守り。一緒に燃やしちまってさ」
昼間クラピカが見つけた、クルタ族の火難避けのペンダント。それを船に投げてしまったことをレオリオは指した。
「……あれは、あそこに眠る彼らにこそ必要なものだ。安らかに旅立てるように」
「……そうか。余計なことだったな」
「いや。君も見送ってくれて良かった」
意外な言葉が返って来て、レオリオは僅かに目を見張りながらクラピカを見る。
酒が少しずつ回ってきたのだろうか、クラピカの頬は少し赤い。
顔だけではなかった。瞳も、ほんのりと赤色に色づいていた。
「おい大丈夫か? 酔った?」
「ん……少し頭がぼんやりとする」
「気持ち悪いとかは?」
「無い。……そう心配するな。大した量は飲んでいない」
確かに言う通り、クラピカの飲んだ量はレオリオのよりずっと少なかった。ほろ酔いといった所か。酒に慣れていないから、レオリオより回るのも早いのだろう。
両手でグラスを抱えたクラピカは、中身をまた飲むと、焦点の合っていない薄赤い瞳でレオリオに訊ねた。
「……トリックタワーでの私の戦いを見て、君はどう思った」
「……どうって?」
「恐ろしくは、なかったか」
クラピカの声が、少し揺れた。何故だか不安げなものに聞こえた。
「そりゃあ、おっかねぇなとは思ったけど。けどお前が怒るのも無理ないだろ。アイツはお前の仲間の仇を騙ってた訳だしな」
「……そうか」
クラピカは酒をもう一口飲んだ。
「……緋の眼になると」
緋色を宿したまま、クラピカは続けた。
「我々クルタ族は、身体能力が飛躍的に上がるんだ。特に怒りで緋の眼になると、理性を失って感情の抑制が利かなくなる」
クラピカの指が、グラスを強く握り込む。
「あの時の私もそうだった。怒りで目の前が真っ赤になって後はもう、気付けば彼を殴っていた。この性質は、カラーコンタクトなどで隠せばいいというものではないのだ。……だから我々は赤目の化け物と呼ばれ、恐れられた。あの男の私を見る目もそうだった」
自分とは異質のものを見る目。畏怖の眼差しを思い出し、クラピカは俯く。
その身体がやけに小さく見え、レオリオは痛ましさを感じながら言葉を選んだ。
「……キレるとやばいのは、誰だって同じだろ」
「そうだろうか」
「そうさ。普段大人しい奴ほど、キレたらやばいなんてザラじゃねーか。別にクルタ族だけが、感情を押し殺す必要なんてなかったはずさ」
「そうかな……そうだろうか」
呟きながら、クラピカは更に酒を煽った。
「おい、あんま飲みすぎるなよ」
「平気だ」
平気って言う奴ほど平気じゃないんだよなぁ、とレオリオはぼんやり考えた。
クラピカは大きく息を吐くと、視線を下に落としたまま言った。
「……なぁレオリオ。私は————私達は、外に出てはいけなかったんだろうか」
クラピカの言葉は、レオリオに向けたというより、自分自身に訊ねたもののようだった。
「だから私達は——」
そこで言葉を途切れさせ、クラピカは顔を伏せた。
帰り道を見失った幼子のように、膝の中に顔を埋めた。
泣いているのかと思った。だが暫く待っていると、ゆっくりとした小さな寝息が聞こえてきた。
酒が回ったのだろう。レオリオはクラピカの手からグラスを抜き取り、テーブルに置いた。
起こさないように気を付けながら、クラピカの体を横にして、毛布をかけてやった。
美しいからと……金になるからという理不尽な理由で狙われ、滅ぼされた一族。
クラピカの心には幻影旅団への怒りとともに、自分だけ生き残ってしまった同胞への罪悪感があるのだろう。
だから恐らく、老夫婦が取り上げずに返してくれたお守りすら、自分を慰める物にはしなかった。躊躇いなく、彼らへ手向けたのだ。
船の汽笛と共に火葬され、海へと沈んでいったクルタの船。
緋の眼に似た、燃え立つ炎の揺らめきは、普段見えないクラピカの心を浮かび上がらせたのかもしれない。
彼の寝顔を見ながら、レオリオはそんなことを思った。
END
フジ版オリジナルの名作・軍艦島編がベースです。私がレオクラに堕ちたきっかけその1です(笑)
レオリオが海中から戻らないことを聞いたクラピカの動揺振りや、ゼビル島での同盟の持ちかけなどを見るに、クラピカの方が先にレオリオに心を開いてるような印象を受けます。
初出:2014.5.3 「Walk along with...」
web再録:2018.11.26