花は夢を見る。

 土の下、まだ見たことのない太陽を待ちながら。

 まだ知らない世界の、夢を見る。

 

 

 ・・・・・・

 

 ノックが鳴らされた。クラピカは机に伏したまま、視線だけをドアに向けた。

 もう一度鳴らされた。今度は少し強く。

 最後はやや、遠慮がちに。

 ようやく立ち上がり、扉に向かう。ロックを解除し開けると、彼がいた。

 

「よう。……もしかして寝てた?」

「いや」

「上は宴もたけなわで、皆すっかり出来上がっててな。邪魔していいか?」

「相部屋になったつもりはないが?」

「お前とオレの仲だろうが」

「どんな仲だ」

 

 そう言いつつも、クラピカはレオリオを招き入れる。

 入り口の扉が閉まることで、室内を逆の方向に空気が流れていく。香水の香りが風で運ばれてきた。

 

「ゴンは?」

「やっぱりキルアのところに行くみてぇだ」

「そうか。……どうした?」

「……まだ夢みてぇな感じでさ」

 

 レオリオは自分のハンター証を見ながらしみじみと言った。

 

「本当になれたんだな」

「ああ。そうだ」

「お前らと会えたおかげだな。ありがとな」

「君の実力だろう。礼には及ばない」

「いや、でも二次試験や軍艦島は、お前がいなきゃ突破できなかったと思うし。それに四次試験もな」

「……君を助けたのは、ゴンだ」

「ゴンだけじゃない、お前がいてくれたおかげだ」

 

 レオリオは身を屈めるようにして、大きな肩を少し前に出し、クラピカに顔を寄せた。

 

「マジな話、お前がバーボンにプレート譲るって言ってくれたの、嬉しかったんだぜ」

 

 お前がハンターを目指す理由を知っているから、尚更にな。そう続ける彼に、クラピカはくすぐったい気持ちになりながら淡々と返す。

 

「……同盟を組んだんだ。助けるのは当たり前だろう」

「あれ〜、でもオレ洞窟に入る前、『同盟は破棄だ』って言ったよなぁ〜」

「了承した覚えはない」

 

 つっけんどんな態度を取り続けるクラピカだったが、口調を変えて言った。

 

「……もし、ゴンや私が同じ目にあったら、君だって同じことをしたんじゃないか?」

「そりゃ当たり前だろ」

「なら私も同じだ。君に感謝される理由はない」

 

 頑なに言い募るクラピカは、自分でも頑固な態度だとは思っていた。だが彼とは対等でいたかったのだ。

 レオリオはしょうがないとでも言いたげな、苦笑のような笑みを浮かべた。

 まるで見守られるような、そんな視線に、奇妙な気持ちになる。

 

「お互いハンターになれて良かったな」

「……そうだな」

 

 今度は素直に同意すると、ふいに名前を呼ばれた。

 やさしい声音だった。

 

「クラピカ」

「なんだ?」

「おめでとう」

 

 屈託ない言葉に、虚を突かれた。

 裏表のないレオリオの笑顔。

 

「……君もな」

 

 クラピカの口には、たしかに笑みが浮かんでいた。

 

 

 

   ・・・・・・

 

 

 

 ……ヨークシンの廃ビルの一室。硬いコンクリートの壁にもたれて、クラピカは目を閉じていた。

 顔を出したレオリオが、意外そうに言う。

 

「まだ寝てなかったのか」

「ああ。……少し考え事をしていた」

「そうか」

 

 言葉を選びながら返したクラピカに対し、レオリオはその内容を詳しく聞いてきたりはしなかった。

 壊れた窓の間からは、墨を塗ったような紺碧の夜空が見えた。

 

「明日、出発だな」

「ああ」

 

 室内に涼しい夜風が入り込んできた。顔に空気の流れを感じたレオリオが隣に問う。

 

「寒くねーか」

「……平気だ」

 

 そう答えたクラピカだったが、レオリオは腰を上げると、部屋の端に置いていた予備の毛布を持ってきた。

 クラピカの頭に、ぼふりと毛布をかける。

 

「いいから、コレかけてろ。風邪なんか引いたらシャレになんねぇし」

 

 頭にかかった毛布をどかすと、レオリオも隣に座り込んでいた。

 ハンター試験での飛行船の時のように、壁を背中に二人は並び合う。

 クラピカはレオリオの親切に甘え、毛布を膝にまでかける。自覚はないが寒さは感じていたらしく、暖かさが気持ちよかった。

 背中に壁のひび割れが少し当たったので、クラピカは無意識にレオリオの方に身を寄せた。すると記憶にない、涼しげな香りが香った。

 

「……香水、変えたのか?」

「ん? ああ。シャルルサーチの新作。どうだ?」

「……悪くはない」

「だろ?」

「君は顔に似合わず、おしゃれだな」

「おい、なんか今余計な一言があったぞ」

 

 そう減らず口を返す間、クラピカの肩にレオリオの手が伸ばされる。

 何をされるのかと思っていると、毛布が上に引き上げられる。肩まで持ってくると、満足げに「これでよし」

とレオリオは言った。

 きっと、もっと自分に問いただしたい事とかもあるだろうに。そんな気遣いだけをくれるレオリオに、クラピカはなんとも言えない気持ちを覚えた。

 

 

 

 香りがさらに近くなる。

 レオリオの香りが、近くなる。

 

 

 いくつもの場面が、記憶の中で立ち現れては沈んでいく。

 その中、悲しい夢の続きに、彼の存在があった。

 彼の香りが、常にあった。

 

 

 ……香水は、レオリオのシンボルだ。

 マラソンで追い抜いていった時。

 軍艦島、パドキア共和国。

 ヨークシン。暗黒大陸。

 

 ……そして、今も。

 会うたびに、彼は新しい香りをまとっていた。

 レオリオの香りの変化はそのまま、時間の経過だ。

 二人が過ごした時間の変化だ。

 

 

 変わらないもの。変わるもの。

 心の中で、誰かの存在の位置が動いてしまうように。

 生きていけば、変わっていく。

 

 

 記憶の奥にあるもの。

 母の温もり。父の手のひら。

 その甘さ。乾いた感触。

 友人と駆けた花畑。

 ……故郷の香り。

 それらは原始の記憶。クラピカの魂に刻まれているものだ。

 

 

 変わることは、忘れることと、よく似ている。

 だからくり返し、自分自身に刻みつけることで。クラピカは無意識に、己の変化を避けていたのかもしれない。

 

 けれど、レオリオは連れてきてくれた。

 新しい香りを。

 新しい風を。

 ……記憶を。

 

『楽しかったって、言える旅にしてきてね』

 

 

 新しい景色を見たいと、思っていたあの頃を。

 

 

 

 世界が鮮明になっていく。

 香りに包まれた。

 嗅いだことのない、そう、

 きっと、彼の香りだ。

 

 

 

 温もりに導かれるまま、瞼を持ち上げる。

 その熱を持った彼が、目を丸くしていた。

 

 

「……クラピカ」

 

 

 息を詰めたように、レオリオが呟いた。

 

 

「…………ああ、やっぱり君か」

 

 

 クラピカは驚いた顔もせず、ふわりと微笑した。

 

 

 まだ力の入らないクラピカの体を、

 レオリオは思いのまま、強く、抱きしめた。

 

 

 

 

 眠りに落ちていた日々のことをレオリオから聞いたクラピカは、あまり驚いた様子を見せなかった。

 ただ「長い夢を見ていた」、とだけ言った。

 

「……白雪姫?」

 

 一通り落ち着いた後、クラピカはレオリオがベッドサイドに広げていた本を見つけて呟いた。

 

「え? ああ。こんな本でも、何かのヒントになるんじゃないかって思ってな」

 

 レオリオは知らず、自嘲の笑みを浮かべる。

 

「馬鹿みたいだろ。王子ってガラでもねぇのに。……そもそも王子が姫を目覚めさせたわけじゃねぇのにな」

「……どういう意味だ?」

 

 訝しげに聞いたクラピカに、レオリオは語った。本来の白雪姫の物語を。

 

「……なるほど。初版と後年のものでは筋が違うんだな。……昔話自体、そもそも民間の間でいつのまにか生まれ

ていた口伝えの物語だからな。時流や時勢に合わせて。きっと形は変化していったんだろう」

 

 考察を述べたクラピカは、一度黙る。ゆっくりと口を開いた。

 

「それでも私は、物語が動くトリガーとなったのは、王子の存在だと思う」

 

 意外そうに目を見開くレオリオの隣で、クラピカは本の挿絵をなぞるように、指で触れていた。いばら姫が目覚めるページだ。

 

「白雪姫の場合、王子が来なければ王子の部下たちが棺を運ぶこともなかった。目覚めるきっかけになったのは彼だ」

「じゃあ、いばら姫は?」

「……本にはちょうど百年の呪いが解ける時と書かれているが、彼が城の前に立ったら、いばらが開いたのだろう? 文学的な解釈で言えば、彼が来たことで目覚めたと言っても過言ではないんじゃないか?」

 

 理論家のクラピカにしては、珍しい意見な気もする。なんだか王子を擁護しているような、そんな気すら感じられる。

 もしや、この顔がタイプなのだろうか……。変なことを考えるが、古いタッチで描かれた王子の顔はイマイチピンとはこない。

 

「それに」

 

 ふと、クラピカの言葉が続いた。

 

「眠っている間、姫は一人で永い永い夢を見ていただろう。それが幸せな夢とは、必ずしも限らない。長い眠りの中では見たはずだ。悪夢と言えるものも」

 

 孤独でなかったはずがないと、クラピカは言った。

 

「たとえ王子が自身でいばらを引き裂いて、自らの力で姫を助けた訳ではなかったとしても、いばらが開けた先に王子がいた。目覚めた時に、姫は王子がいてくれたおかげで思ったはずだ。もう寂しくないと」

 

 クラピカは自ら、レオリオの手に重ねた。

 まるで、同じだと言うように。

 はっと、レオリオはクラピカを見つめた。

 見つめられたクラピカは、花がそっと蕾を綻ばせたように、微笑んだ。

 

「知らなかったか? 私は、とっくに君の存在を望んでいたんだよ」

 

 レオリオは瞳を緋色にして、見上げてくるクラピカと見つめ合う。

 永遠とも思える瞬間を経て、クラピカは、

 レオリオの香りに、包まれた。

 

 

 

「……キスには魔法が宿ってるってのは、本当だったんだな」

「え?」

「お前からそんなこと、初めて聞いた」

 

 横たわったまま、レオリオはちょっとだけからかうように言った。

 

「オレの口づけで、頭のネジでも緩んだか?」

「……そうかもな」

 

 

 

 人はなぜ夢を見るのだろう。

 過ぎたことだから、夢を見るのか。

 叶わないから、夢を見るのか。

 ……それとも叶えたいから、夢を見るのか。

 

 

 夢。現実でないもの。願望。虚構。

 脳の錯覚。まぼろし。

 

 

 

 

 人が死ぬまでの一生は、魂が見ている長い夢なのだろうか。

 ……それでも、いや、それなら。

 

 

 できるなら、君と同じ夢を見たい。