やさしげな笛の音が、ホテルの一室に響いていた。

 野原を思わせる暖かな音色は、オーラを纏ってクラピカの体を包んでいる。

 ひたすら重いだけの体が、徐々に軽くなっていく。

 しかしまた、数時間前の景色が目の奥にオーバーラップする。

 

 赤い月に照らされた、夜の荒野。

 自分が命を奪った男の死に様が、まざまざと瞼の裏に浮かび上がる。

 

 ……はじめて、人を殺した。

 かねてからの宿願であったはずだ。けれど残ったのは虚しさと、行き場のない、どうしようもない気持ちだけ。

 

 人の命を奪うということ。

 旅団と自分、何が変わらないというのだろう。

 

 クラピカは両手を広げてみた。手の平はすでに、清潔に清められている。

 けれどもあの時鎖から滴っていた血は、脳裏にこびりついている。消えない跡として、まざまざと。

 

 癒しの笛の音色が、クラピカの身を抱き込む。

 まるであやすように。その音階に身を委ね、クラピカは重く感じる瞼を閉じた。

 視界には、白い花。幼い頃に見た景色。

 遠くなる感覚の隅で、無意識に思う。

 

 

(……ああ、違う)

 

 

 もうあの森の花の香りは嗅げない。きっと、二度と。

 

 

◇◇◇

 

 

「まだ目が覚めないの?」

 

 数日後、協会の近くまで来たゴンがキルアと連絡を取り、二人を訪ねてきた。

 現在のクラピカの状況が複雑なため、ノストラードの事務所ではなく、近場のカフェで落ち合うことにした。

 

「ああ。ずっと眠りっぱなしだ」

 

 先日メールで近況報告はしていたが、レオリオは問いの答えを述べる。

 

「その花屋の子には、念能力者の自覚はないの?」

「多分な。あの後また訪ねてみたんだが、どこからどう見ても一般人だな」

「ってことは、特質系の念ってことかな?」

「悪意のある念じゃねーってことは、その能力は彼女の性格や仕事に由来してできたんだろうな」

 

 辛い時、大切な人からもらった花に励まされたことから、花屋になりたいと志し、店を開いたという彼女。

 おそらく彼女の人を癒したいという気持ちは、純粋であるがゆえに念となり、花を買った人に作用するものだったのだ。

 

 とはいえ、本来ならば彼女の念はそこまで強くない。いくら疲れていたとはいえ、普段のクラピカであれば影響を受けることはなかっただろう。

 しかし先日、滅多に手に入らないルクソ地方の花が手に入った。

 それが思いがけず、クラピカの心を揺さぶったのだ。

 

 オーラの量から本来なら、一日も満たずに消えてしまうであろうその効果は、花を片付けてもなお続いていた。

 クラピカの部屋は、いまだに花の香りで満ちていた。

 まるで、何かの名残のように。

 

「花を片付けても、眠りっぱなしなんだって?」

「ああ。さすがに買ってから何日も経って枯れちまってきたから、仕方なく片付けたんだが。それでもな」 

「さながら、眠り姫って感じだね」

 

 茶化すように言い、キルアは乾いた口を潤すためドリンクを啜る。

 

「心配だね、レオリオ」

 

 彼の本音をも代弁するように、ゴンは顔を曇らせる。

 

「なーに、悪いモンじゃないとわかったんだ。明日にはけろっと起きるかもしれねーぜ」

 

 明るく言ってみせるレオリオに、ゴンはそうだね、と相槌を打つ。しかしキルアは小声で「嘘つけ」と言った。

 

「本当はまだすげー心配してるくせに。強がっちゃって」

「何をー!?」

 

 あっさり本心を看破されたレオリオはいきり立ってみせるが、キルアの目は意外なほどに優しい色をしていた。

 年下の友人たちが心から思ってくれることがわかり、レオリオは「ありがとな」と礼を言った。

 

「ほかに念を解除する方法ってないかなー」

「うーむ……」

「んー……」

 

 話し合い中につまんでいたメニューもすっかり食べ終え、三人は頭をひねる。

 

「除念師を呼ぶ程のものでもないしなぁ」

「てか、念の気配がもう感じられないなら、除念できるかも謎だよな」

「確かに」

 

 キルアは真面目な顔をふと崩した。

 

「いっそ王子様よろしく、キスでもしてみたら?」

 

 意表を突かれたレオリオは、目を点にした後、顔を赤らめた。

 

「……ンニャロ」

 

 きしし、とキルアはいたずらっぽく笑った。

 

 

 

 

「とにかく、オレたちも調べてみるよ。何かあったら連絡してね」

「おう。ありがとな」

「じゃ、お姫様によろしく」

「うるせー!」

 

 人混みの中、レオリオは大きな肩を窮屈そうに縮こませながら去っていった。

 彼と反対方向を向き、駅の方に歩きながら、キルアはぼやく。

 

「……けど、一体いつになったら目を覚ますのかね? クラピカは」

「うん……でもレオリオが傍にいれば、きっと大丈夫だよ」

 

 ゴンはどこか自信を持った様子で言った。

 キルアは目を軽く見張る。

 

「……その根拠はどこからだよ」

「うーん、経験と、勘?」

「どんなだよ、それ」

 

 そう言いつつも、親友の言葉にキルアはにっと笑みを浮かべた。

 

 

 

 クラピカの私室に戻ったレオリオは、センリツと見守りを交代する。

 ベッドのそばの椅子に座り、サイドテーブルに紙袋の中身を広げた。駅前にあった本屋で買ってきたものだ。

 それらは、ゴンとキルアとの会話から、気になって立ち読みをして、そのまま購入を決めた昔話の絵本だった。

 影絵から現代風のイラストまで、バリエーションは様々だったが、何となくレオリオは古そうなタッチのものを選んだ。

 

 『いばら姫』。別名・眠りの森の美女。

 過去いくつもの映画や舞台の題材にされてきた、古い物語だ。

 媒体によるが、近年最も知られているオーソドックスなタイプでは、王子は姫の呪いを解くためにさまざまな試練に立ち向かう。悪役である魔女を倒しに向かったり、城を探索したり。作中でもっとも盛り上がるエピソードは、王子が姫の元にたどり着く旅のくだりでもある。

 だが原典である一番古い童話では、物語の筋は違う。

 姫は王子によって、眠りから解き放たれたのではない。たまたま魔女のかけた百年の眠りの呪いが解ける時に、王子がやってきたのだ。

 似た話である『白雪姫』も同じだ。

 魔女の作った毒リンゴで深い眠りに落ちた姫は、王子が来て口づけをしても、目覚めることはなかった。

 しかしせめて眠る彼女を城に連れて帰りたいと、王子は部下に姫の入っていた棺を運ばせた。その際に部下が偶然つまずいて棺がぐらついた時に、毒リンゴのかけらが姫の口から落ちた。そのおかげで、白雪姫は息を吹き返したのだ。

 どちらも王子の存在は、姫を目覚めさせた存在とは正確には言いがたい。

 

 ……眠り姫と称されたクラピカを眺めながら、レオリオはぼんやりと思う。

 クラピカを起こす役目も、王子の役も、自分なんぞでは務まらないのではないだろうか、と。

 ふと、ウエディングドレスをまとった金髪の少女の姿がよぎった。昨日会った、幸せそうな彼女を思い出す。

 

 この世には、自分にそっくりな人間が三人いるという。

 昔クラピカが旅先で会ったクラリオ姫のような。世界のどこかで、同じ姿をしている人間が他にいるならば、

 なぜクラピカばかりが、辛い目に遭わなければならないのだろうか。

 幸・不幸は他人と比べるものではないが、クラピカの背負った運命はあまりに過酷だといえるだろう。

 ……悲願であった、すべての緋の眼を集め終わり、責務としていた役目を終えた今でも。彼は夢の中にしか安らぎを得られないのだろうか。

 

 部屋には、もうないはずの香りがなお残っている。

 

「なぁクラピカ……夢の中(そこ)はまだ幸せか?」

 

 返事は変わらず、ないままだった。

 

 

 

 

 絵本を広げて、どれぐらい経っただろうか。時計を見ることを忘れていたが、突如レオリオの携帯が振動した。

 時刻はすでに夜。名前を見るとリンセンだった。

 クラピカは依然眠ったままなので、枕元に座ったまま応答する。

 そして数分後。彼の話を聞き終えたレオリオは、にわかに興奮した様子で立ち上がった。