花は夢を見る。
かぐわしい香りを放ちながら。
ただ、朽ちていくのを待つのだ。
3
夜の闇が、喧騒に華やぐ一つの建物を包む。
ハンター試験終了後、試験委員会が経営するホテルでは、協会が主催する合格記念パーティが催された。
合格者たちの胸には、それぞれ胸花が添えられた。名誉ある資格らしく、飾りには造花ではない本物の花が使われていた。
雑誌にも載せるのか、合格者全員の写真も撮られて、豪華な食事も食べて。まだ賑やかなパーティ会場をクラピカは後にする。階段を下るだけで、途端に静けさが身を包む。
やや高揚していた気持ちが、つられるように凪いできた。
クラピカは一人、宿泊部屋として宛てがわれた部屋に戻った。カードキーで開閉する。広い室内の窓側には、寝心地の良さそうな大きなベッドがある。
少し夜風を浴びたくて、クラピカは窓を開ける。やや固いそれは重く、力を入れないとなかなか開かなかった。
ようやく少し開いた。髪を風になびかせた後、ベッドに横にはならずに椅子に座る。
ふぅっと全身から力を抜いて、体を前に倒す。腕を枕にして、机に体を預けた。
動作で空気が生まれ、クラピカの胸に付けた花が揺れた。同時に香りが漂い、鼻をかすめた。協会から贈られた、祝福の証。
……本当に合格できたのか。服の奥をまさぐる。
クラピカは真新しいハンター証を取り出した。
電灯の明かりに、かざしてみる。
ライセンスマークが、ちらりと光る。
……父さん、母さん。オレ、ハンターになったよ。
でも、何でだろう。そんなに嬉しくないんだ。
ずっと叶えたかった夢のはずなのに。
ふいに夜風が、クラピカのそばを通り抜けた。
冷え冷えとした空気が、むき出しの頬に触れる。
……ああ、そっか。
嬉しくないのは、当たり前だ。
だって、みんながいないから。
それから二日が経った。護衛に同行するかたわら、センリツたちと目覚めないクラピカを看る日々を送るレオリオは、信頼できる友人たちに連絡を入れた。
『……操作系の場合は、兄貴の針みたいに、相手を操るためのアンテナみたいのが必要になると思うんだけど。そういうのはクラピカの体にはないんだよね』
「ああ」
『それじゃあ、離れた所に念を使うのに向いてる放出系……? あ、でもパームさんみたいに、強化系でも遠くを見られる能力とかあるしなぁ』
電話口の向こうから、かわるがわるにゴンとキルアが喋る。相談に乗ってくれているのだった。
「うーん、念の系統で考えない方がいいかもしれねーな」
『そうだね。クラピカの鎖だって、操作系に近い能力があるしね』
『念の気配が感じられないって場合は、ナックルみたいに、対象者と直接触れないと発動できないってタイプかもしれないな。それですでにその念は発動して、効果が完了している』
「直接か……」
キルアの言葉から、レオリオの頭に一つの可能性が浮かんだ。
その日の午後、レオリオはある場所に赴いた。
訪れたのはノストラードファミリーの事務所がある街の、大通りからやや離れた場所にある花屋だ。
ガラスの扉を押して、店の中に入る。こじんまりとしている店内には、数え切れない種類の花が溢れている。
奥に行くたびに、様々な花の匂いがレオリオの鼻を刺激する。しかし不思議と暴力的ではなく、それは心地よいと思える絶妙な塩梅で存在していた。
カウンター近くで、一人の女性が作業をしていた。
「いらっしゃいませー」
「ここの店長はいるか?」
「はい、私がこの店のオーナーですが」
どうやら今の時間は、店長だけが表に出ているらしい。もしかしたら個人経営なのかもしれない。
「仕事中にすまねぇけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「はい」
「ここの常連の客について教えて欲しいんだが」
店長の女性は、整った顔を厳しいものにした。
「……失礼ですが、どのような目的で? お客様の個人情報をお話しする訳にはいかないのですが……」
「ああ…そうだよな。悪ィ」
レオリオは、肌身離さず持ち歩いているハンター証を取り出して見せた。
「オレはハンターなんだけど、ちょいと警察の聞き込みに協力してるんだ」
もちろん方便だ。だが芯の強そうな態度を覗かせた彼女は、ハンター証の意味をしっかり知っていたらしい。ライセンスを見て、驚いたように眉を上げた。
「! そうだったんですか。すみません、私ったら失礼なことを……」
「いや、こっちが最初に言わなかったのが悪いからな。君は当たり前のことをしただけだ」
店員はレオリオのフォローに少し目を丸くすると、柔らかくはにかんだ。
「……常連のお客様のことですよね。どんな方ですか?」
「ええと、そうだな。君より背が少し高い、金髪のショートカットの……」
そういえば、クラピカの名前まで言っていいものか。
もしかしたらこの店では偽名を使っていたかもしれないし、クラピカの現在の立場が立場なだけに、レオリオは言い淀んでしまう。
しかし外見だけで、店員はすぐにピンときたようだ。
「……黒い服を着た?」
と彼女は聞き返す。レオリオは言葉を反芻する。
黒い服。
「…………ああ、きっとそいつだ」
一瞬詰まったのは、レオリオがいまだに慣れていないからだ。クラピカのスーツ姿に。
レオリオの中のクラピカのイメージは青。そして赤。クラピカの瞳を表す、二つの色だ。
そして思い出すのは、マフィアのスーツ姿ではない。出会った時に身にまとっていた独特のマントと、キルアの家に行くときの赤い服。そしてヨークシンでの真っ青な民族服。
「一年くらい前から来るようになったお客様なんですけどね、二、三週間に一回ぐらいペースでいらして。いつも沢山花を買われていくんですよ」
車のトランクに、いっぱい詰めて。歌うように彼女は続けた。
「お知り合いなんですか?」
「あ、ああ……まあ、な」
レオリオの含んだ様子に、店員はぱちぱちと瞬きをする。しかし、その裏にある感情(もの)にひそかに気付き、先ほどよりも優しげな口調で話を続ける。
「そうそう、この間はちょっと珍しいお花が入ったんですけど、それも一緒に全部買われていかれたんです」
「珍しい花?」
「はい。ルクソ地方にしか咲かない白い花です」
「ルクソ地方の……」
「ええ」
レオリオの心臓が音を立てる。
あの花だ。クラピカの寝室にあった、あの花。
クラピカにとって、あれはまちがいなく故郷を想起させるもののはずだ。
もしや、と思い、レオリオは凝を使ってみる。
……靄のようなものが、周囲に漂っている。
念だ。オーラはやや薄めだが、あまりに周りに広がりすぎていて出どころがわからない。
レオリオはさらに集中してみた。すると店長である彼女の指先が、最もはっきりとした念をまとっていた。そこから、手にした花にオーラが注がれている。
(やっぱり、この娘(こ)が念使いか)
しかし自らコントロールしている様子はない。
優れた芸術家や武術家など、その道に通じるプロはハンターでなくても念を使えるという。
ゼパイルと同じように、彼女もおそらく、知らずして念を使っている人間の一人なのだろう。
しかし仮にクラピカの状態が彼女の念によるものであるならば、意図的なものでない以上、念の仕組みを本人に聞き出すことはできない。解除する方法もわからない。
完璧な手詰まりだ。
センリツは、悪意のある念には思えないと言っていたが……。
「……なぁ、花の匂いって、何か特別な効果とかあるのか?」
質問してばかりのレオリオだったが、職業柄か話すのは嫌いじゃないらしく、彼女は嫌な顔ひとつせず答えてくれた。
「そうですね……やはり一つはリラックス効果でしょうね。アロマとかがありますように、香りの組み合わせで、効果も変わってくるんですよ」
「へぇー」
「あと匂いには、もっとも鮮やかに人の記憶を立ち昇らせるという話があるんです」
「記憶を?」
「例えば、なにか特別な匂いを嗅いだ時、それまでずっと忘れていたことを、急に思い出したりする事とかありませんか?」
言われてレオリオは、故郷の海の匂いを思い出した。
ハンター試験から帰ったあと。ひさびさに飛行機で空港に降り立ち、潮風を嗅いだ時。
離れていたのはたった数ヶ月なのに、無性に懐かしくなった。
「……ああ、そういえば確かにあるな。そんなこと」
「でしょう? プルースト効果というんです」
レオリオは、クラピカが眠りにつく前の会話を思い出す。
『ここに来る前ずっと祭壇にいたから』
そして部屋に立ち込める、花の香り。
「……そうか。ありがとな。参考になったぜ」
「今度は買いに来てくださいね、彼女と一緒に」
「彼女?」
と疑問符を浮かべるが、店員は笑顔で見ている。
「……ああ、できたら、な」
それに対して、レオリオは曖昧な言葉にとどめて返した。
◇◇◇