君との夜明け
この気持ちの名前を、ずっと前から知っている。
ブラホワで4度目の総合優勝を飾り、年も明けてしばらくたった頃。ユキはとあるドラマの主題歌を頼まれた。
内容は十代から二十代の青年たちが、何度も挫折を味わいながら、それでも夢を追いかけ進み続ける、青春群像劇だ。
制作側からの依頼としては、ドラマのエンディングに流れるため、爽やかな余韻を感じさせつつ、登場人物たちに寄り添ってくれるような、応援ソングにもなりうるような、そんな歌がいいという注文だった。
ユキの場合、歌の制作は曲が先行、いわゆる曲先であることが多い。クライアントに出されたテーマに沿って、おもちゃの城を組み立てるみたいに、一つずつ土台からくみ上げる。またある時は、外を散歩している時、突然どこからか新しい音が降ってきたり、かと思えば、以前よりずっと聞こえていた気のする微かな何かが、急に色がついたように像がはっきりして、姿が立ち現れたりする。それらを捕まえて、譜面に起こして、しっくりくる言葉を乗せていく。
モモが歌詞を書くようになってからは、Re:valeの歌は詞先のことも増えた。モモが選ぶ言葉はどれも彼らしく、語彙が豊かでありながら、どこまでもまっすぐで、あまり崩したくないと思う。その単語の響きや、柔らかさも含めてメロディにしたい。「t(w)o…」などはその典型だ。
今回の場合は、曲が先のいつものユキのスタイルとなった。テーマは、苦悩を内包した青春と未来。それらを思い描きながら、軽やかで、口ずさみたくなるメロディーラインの中に、感情を絞り出して、掘り起こして、歌詞を綴っていく。
それぞれの壁にぶつかり、足掻き、苦しみ、それでも自分は自分なのだと、進んでいく主人公たち。新しい景色を見るたびに知る、嫉妬。プライド。願望。
曲に感情を乗せるには、自分の経験から掘り起こしていくのが、もっとも有効な手段だ。
自分たちにとっての挫折や試練というと、一番近い記憶は五周年ライブの前。モモの声が出なくなった時のことが、やはり頭をよぎる。その頃のことを歌ってみようと、モモとも事前の話し合いで決めていた。
改めて当時のことを考えているうちに、ユキは、ふと別の曲を作り始めた。
完全に別物ではない。音階は同じだけれど、歌の主題は全く異なるもの。けれどユキにとっては、当時を振り返るにあたり、それは切り離せない感情だった。
作曲作業をしている時、こうして脱線してしまうことはたまにある。
大抵の場合は、一つの作品ととことん向き合って、それこそ魂や命を削るようにして形を整えていくけれど。
たまに何かの拍子に、自分でも意図せずとして別の歌のかけらを作り出すことがある。
慎重に掘り進めていた金脈の中から、思いがけず珍しい宝石を見つけたような。
本題から外れ、つい横道に逸れてしまう、なんてことがある。
もちろん、ユキはプロのミュージシャンとして、期日に作品を間に合わせなければならない。
そのため脱線しつつも、思いがけず得たモチーフはいつかのためにと書き留めて、あるいは音を吹き込んで取っておくことが多いのだが。
今回の場合は、ユキはその別のものから目を逸らすことができなかった。
今向き合わなければ、一から真剣に作らなければと感じた。
あの時の、ひとりぼっちでうずくまっていたモモに言えなかった気持ち。
口に出さずに伝わっているとばかり思っていた、彼への気持ちを。
(叙情的な編曲にしよう。ピアノとヴァイオリンで、音は少なく、バラードで……)
逸る気持ちを抑えながら、大事に丁寧に作っていく。音の一つ一つにまで、込めきれない思いを精一杯込める。
最後の一音を乗せて、ヘッドホンを入力機にして自分で仮歌も吹き込んでしまった。
(できた……)
タイトルは決まっている。達成感を感じた刹那、視界は闇に落ちていた。
目が覚めると、しんと冷たい空気が顔に触れた。いつの間にか部屋の電気が消されている。作業を終えたまま、パソコンの前で気絶するように眠っていたようだ。
身を起こすと、毛布が肩から落ちそうになる。寝ている間に、誰かがかけてくれたみたいだ。
誰かが、じゃない。
モモだ。
ユキは毛布を掴むと、ゆっくりと居間に向かって歩き出した。
外は空が白み始めているらしい。リビングのガラス扉から漏れ出た光で、廊下がうっすらと青い色に照らされている。ブルーアワーと言ったか、夕焼けのマジックアワーの対義語。
ユキは静かにリビングのドアノブを回した。
リビングのソファで、毛布にくるまったモモが寝息を立てていた。
座った状態でそのまま体が横倒しになっていて、肘掛けの部分を枕にしている。
ローテーブルには、冷たくなったコーヒーが半分ほど残っていた。
ユキに毛布をかけた後、もう少し起きていようとソファに座り、そのまま眠ってしまったのだろう。
あの狭いアパートで二人暮らしをしていた頃から、そうだった。
ユキが作曲作業をしていると、モモはこうしていつも寄り添ってくれた。
バイト帰りの時は、玄関の方から邪魔をしないようにとそっと窺って。夜中明かりを付けずに作業している時は、布団の中でひっそりと息を潜めて。
でも不安な時にいつも手が届くように、背中を振り向けばいてくれた。
ユキが一人で戦っている間、ずっとそばにいてくれた。
自分に音楽の知識はないから手伝えなくてごめんねと言いつつも、できる全てで必死にユキを支えてくれた。
ほの暗い青に沈んだ室内で、目の前で静かな呼吸を繰り返しているモモを、ユキは飽きずに眺める。吸引力のあるマゼンタの瞳は、今はまぶたの裏に隠れている。わずかに開いた口の端から可愛らしい八重歯が覗いている。
ふにっと、ユキはモモの柔らかい頬に触れてみた。機嫌の悪い時、拗ねて膨らませるほっぺたを突つく時よりも、そっと優しく。そのまま指を顎のラインに滑らせる。
ユキとお揃いにするため毛先を白く染めた、特徴的な黒い癖っ毛。ユキよりは体格は小さいけれど、骨張った顔付き。呼吸をするたびにわずかに上下する喉仏。
静かな、けれど健やかな寝息。それら全ては、ユキが思う愛しさのかけらだ。モモを形作るひとつひとつが、貴重なものに思えた。
ユキにとって、モモは空気に等しい存在だ。
なければ息ができない。呼吸ができなければ苦しいまま、窒息してしまう。
きっと出会うまでは、カラカラの状態でかろうじて生きていたのだと思う。そう考えると、よく生きてたよね、僕。
起こさないようにしつつ、それでもなお、あたたかい体温に触れる。
モモと初めて会った時から、彼はユキに欲しいものを与えてくれた。
手紙、歌への言葉、温もり……。
いつも全力で、たくさんの『好き』をユキへ注いでくれた。
……そんな風に。空気みたいに、そばにいてくれるのが、当たり前だったから。
当たり前だったから、失うことなんて考えられなかった。
けれどモモは、初めの宣言に忠実でいるつもりでいた。五年の約束。その期限が来たら、自ら手を離すつもりだったなんて。
ユキには手を離すつもりなんて、最初からなかったのに。彼から心が離れたことも、ついぞなかったのに。
モモにそう思わせてしまったのは、口下手なユキの行為の積み重ねに他ならない。
言わずとも伝わるだろうと、伝わっているだろうと、甘えてしまっていたためだ。
そのことをどれだけ後悔しただろう。五周年ライブを終えた後、車の中で吐露してくれた時のモモの涙を、ユキは今も覚えている。
ユキに何かを求めてしまう自分が嫌なものに思えて、それでも望んでしまうのが嫌で、苦しくてたまらないのだと。
泣きながらこぼした言葉のひとつひとつを、ユキは噛み締めた。
そこまで苦しみながら思ってくれることが、愛おしくてたまらない。
いつもそばにいてくれた。だから何度も夜を超えられた。明けない夜に、君が太陽を連れてきてくれた。
モモがいてくれるから息ができる。君が大事だ。僕は、モモが、大事だ。
じりじりとした黎明の時間が終わり、世界が一気に明るくなる。青色だった空間が、朝日の眩しい白に変わっていく。水面から浮かび上がるように室内の輪郭がはっきりとしていく。
カーテン越しに太陽の光が、眠るモモの顔を照らす。
飽きずに顔を撫でていた指をそっと肩へと固定して、揺すってみる。
「モモ」
心を揺らすたった一つの名前を、ユキは呼んだ。
「モーモ」
ん、とくぐもった声が響いて、ゆっくりとまぶたが押し上げられる。
寝起きで潤んだマゼンタの瞳が、朝焼けの中ユキを映し出す。
「……ユキ」
「おはよう」
「おはよ。オレ、寝ちゃってたみたい」
「そうね」
「ユキの方が先に起きてるなんて。もしかして、あの後また起きてた?」
「寝たよ。寝たっていうか、寝落ちだったけど」
毛布ありがと、と言うと「やっぱ、あのまま落ちちゃったんだ」とモモは笑う。
「寝起きでぼんやりさんじゃないユキに会うの、久々」
目を擦りながら身体を起こす。幼い仕草を見せていたが、満足そうなユキの表情を見て気づいたらしい。
「曲、できたの?」
「うん。けど、思っていたのと少し違うものになった」
「そうなの?」
「僕としては満足のいく出来だけど、コンセプトが変わったから……」
「ユキの作るやつなら、絶対ウルトラハイパーに最高な曲だよ」
「聞く前からわかるの?」
「聞く前からわかるもん」
ユキが作ったんだから、と確信を持って言うモモに、ユキは微笑む。この言葉に見合うようにと、何度心を奮い立たせただろう。
そっちに行く? と作曲部屋に行こうと気を利かせたモモが、寝ぼけ眼のまま腰をあげようとする。
「まだ眠いだろ、目が半開きだよ。プレーヤー持ってきてあげるから、待ってて」
「寝起きからイケメン……」
モモの頭をくしゃりと撫でたあと、ユキは部屋に向かい曲を携帯プレーヤーに落とした。パソコンに繋げていたヘッドホンをそれに付け、早足でリビングへ戻った。
居間に戻ると、モモはネイルを塗った両手足を伸ばしてふわぁと欠伸をしていた。
昨晩は、深夜までレギュラーのバラエティの仕事があったはずだ。今日が午前中オフとは言え、本当ならば体を休めた方がいいのに。
それでもモモがこの家に来たのは、ユキが作曲しているからだ。ユキの戦いに、寄り添おうとしてくれたから。
「モモにしては珍しくおねむだね。疲れてるんじゃない?」
「ユキの曲を聞いたらすぐに目が覚めるって。ついでにパワーも充電できちゃう」
「ふふ。だといいけど」
「でも珍しいね、ユキが脱線するなんて」
「まぁね。……あの時のことを考えていたら、どうしても作りたくなって」
ヘッドホンを受け取った後、モモは律儀に聴いてもいい?と聞いてくる。こういういじらしい所が、昔と変わらない。
期待に大きな目をさらに大きくするモモに、ユキはうなずく。
カチャリと頭にヘッドホンを嵌め、スイッチを入れてモモが歌を聞き始めた。
この時間が、一番ドキドキする時かもしれない。
クライアントに提出する時よりも、観客に披露する時よりも。
モモを失望させないか。受け入れてもらえるか。それが何より一番気になることだった。
でも、いつもすぐにその不安は、良い意味で裏切られてきた。
モモの顔が、聞いているうちにキラキラしてきて、鮮やかなピンク色の瞳もキラキラと輝いて。
もしくは、体全体でリズムを刻んで、生き生きとした表情になって。
そんな反応を見せるモモを見ると、歌を作ってよかった、生きててよかったと、自分自身の存在を全肯定された気持ちになった。
しかし今日の場合は、これまで見たどれとも違った。
最初はメロディーに聞き入って頭でリズムをゆっくり刻んでいたのが、いつしか目を見開いて、それからゆっくりと表情が落ち着いて……
そして、最後に柔らかな、深い微笑に変わった。何かを悟ったような大人びたものにも見える、けれど大切な物を愛おしむような、そんな慈悲深さを湛えた、静かな笑みだった。
そんな表情を見ることはあまりないから、ユキは少し見惚れて息を飲んだ。
曲が終わったようだ。モモがヘッドホンを下ろす。膝に置いたまま、無言でいる。
やがて囁くような声で、口を開く。
「……ユキ。ひとつ、わがまま言ってもいい?」
「何?」
できるだけ優しく聞こえるように、ユキは答えた。
「この歌、オレとユキだけのものにしたい」
モモはユキを見上げた。その顔には、小さな渇望が見えた。
「オレ、ユキの歌を、もっともっとたくさんの人に聞いてほしい。たくさんの人にユキの歌を知ってもらって、たくさんの人に、ユキの歌を口ずさんでほしい。そうずっと思ってる。今も思ってる」
知ってるよ、とユキは心の中で言った。お前が僕の歌をずっと愛してくれているのは、知ってるよ。
そう口に出さなかったのは、照れたわけじゃない。モモがまだ何か言いたげだったから。
「でも、この歌は、二人だけのにしたい。……ぜいたくかもしれないけど」
モモは抱きしめるようにプレーヤーをギュッと握りこんだ。
「だって、わかるもん。この歌を、ユキがどんな気持ちで書いてくれたか。どんな気持ちで歌ってくれたか」
スッと、モモの頬を一筋涙が伝った。マゼンタの瞳から落ちた滴が、流星のような弧を描いて、床に落ちる。
ポタッ、ポタッと。乾いたフローリングに、幾粒も涙が染み込んでいく。
「あの時のオレに、書いてくれたの?」
あの時、望みを言えずに、ひたすらに自分を追い詰めて、歌えなくなってうずくまっていたあの子が、ひとつの願いを口にしている。
ユキの曲を確かに受け取り、その上で、涙を流し、求めている。
モモの指を、ユキは自分の両の手で包み込んだ。
「あの時だけじゃない、出会った時から、今もそう。ずっと僕のそばにいてくれたモモへの歌だよ」
泣きながらユキを見つめるモモを、ユキはまっすぐに見返した。
「自分でも言うのもアレだけど、僕は不器用だから。あの頃のことを考えていたら、今伝えなきゃって思ったんだ」
嗚咽をこらえるように、モモが何度か息を吸った。その背中へと腕を回す。しんと冷え込んだ冬の夜、狭いアパートで身を寄せ合ったように、震える身体を抱きしめる。
「……嫌だった?」
わざと聞いてみせると、モモは首が千切れるくらいに降った。
「うれしい、すっごくうれしい。死んじゃいたいくらい嬉しい……」
「死ぬのは困るよ」
真剣に言ったユキに、モモは泣き笑いの表情を浮かべる。我慢しきれずに嗚咽がこぼれて、わずかにしゃくり上げながら片手で乱暴に目元を拭う。あやすように、ユキはモモの背中を何度もさする。
モモの背を撫でながら、ユキは話しかける。
「ねぇモモ。僕も、同じことを言おうと思ってたんだ」
この曲は、とても大切で。宝物のように愛おしいものだけれど。
あまりに個人的な、私的な感情にあふれすぎている。
それより、何より。モモだけに聞いてほしい曲だから。
腕の中から見上げてくるモモに、ユキは人差し指を口に当ててみせた。
「この歌は、僕とモモの秘密だ。おかりんにも内緒」
「……えへへ。恥ずかしいもんね。こんな、公開プロポーズみたいな曲。『t(w)o…』より恥ずかしいかも」
「まぁ……そうね」
ウェディングソングの上いっちゃったよ、と巷で意図せず結婚ソングと言われるようになった前作を、モモは引き合いに出す。
たしかにあの反響は予想してなくて、ニュースで紹介されていた時はちょっと恥ずかしかった。いや、結婚って永遠を誓うわけだから、間違ってはいないわけだけれど……。
けれど最初はユキよりも、歌詞を書いたモモの方が恥ずかしそうだったのに、いつのまにかネタとして使えるようになっていたなんて。バラエティアイドルのメンタルはたくましい。
おどけるように肩を動かし、クシャリと眉を歪ませて、モモが笑う。笑った拍子に目尻の端から涙が溢れて、またこぼれた。その全てが愛おしい。朝露に光る花のような、澄んだ涙を流すモモのその瑞々しさが、ユキの心を満たしていく。
「ああ、でも。お蔵入りにするにはメロディがもったいないなぁ……すごく優しい曲だもん。Aメロのここのとことか」
ふっと音を口ずさむモモは、ユキよりもユキの曲を愛してくれている。だからユキは、ユキでいられるのだ。ユキの中から、音楽を生み出し続けることができる。
「大丈夫、途中まではほとんど同じフレーズで作ってたんだ。気がつけばこうなってたけど」
「作曲あるある?」
「愛のマジックかな」
「愛だって! きゃー! ダーリンったら大胆……!」
本音半分、夫婦漫才半分で、頬に両手を当てて歓声を上げるモモに得意げに笑ってみせた。
「ドラマの主題歌の方は、もっと歌の対象を広くした方がいいよね。でも根っこの部分の『君がそばにいる』ってところは、残しておいた方が素敵じゃない? テンポももう少しあげてさ」
「疾走感のある感じにしてる。音もこんなシンプルじゃなくて、ドラマに映えるように色々使ってみようと思ってる」
「さすがユキ! あ、メロディもだけど、最初のコーラスは残しときたいなぁ。歌詞は少し変えてさ。……迷っても歌があるよ、みたいな」
オレがそうだった、とモモは言う。どことなく真摯な色を帯びた声音に、ユキは耳を傾ける。
「オレが立ち上がれなかった時、Re:valeの歌が、ユキの歌があったから、前へ進もうと思えた。試合のことも、怪我のことも、オレは過去にすることができたんだ。見るのが辛かった『夢』や『未来』って言葉と、もう一度ちゃんと向き合えるようになった。
そんな風に、いろんな人に寄り添ってあげられる歌にしよう。楽しい時も、しんどい時も。人の形も苦しみも皆ちがうけど、それぞれに意味があるんだって」
「……そうだね」
迷いのない瞳は、いつだって新しい明日を見つめている。この目を見ていると、なんだってできる気がする。
「でもこれは、こっちは、オレとユキだけの特別」
モモはまるで宝物を隠す子供のように、曲の入ったプレーヤーを胸元へと持ってくる。
「あの時、オレが迷子になってただけで。ユキの気持ちは、ユキは、ずっとそばにいてくれてた。……気付くのが遅くなっちゃって、ごめんね」
ユキはただただ首を振る。モモが望んでいた言葉を口にできなかった愚かさが、後悔が胸を掠めた。
でも今は、それよりも伝えたいことがある。甘くひそやかな声で、ユキはモモの耳元へと口を寄せた。
「ねぇ。こっちの歌詞にある『花の名前』、知ってる?」
『君が笑うその瞬間に 咲いてゆく花の名前』
ユキの問いかけに、モモはことりと首を傾げた。
「決めてるの?」
不思議そうな表情のモモに、ユキはうっそりと微笑む。
ピアスの付いた耳へと手を伸ばし、メッシュのついた髪先をかき上げる。両手を柔らかい頬に伸ばして、まだほんの少し涙の滲んだ瞳を捉える。ゆき、とやや驚いた顔が、唇のみで音を象る。
「『モモ』」
二人だけの部屋を震わせたその響きは、分け合った呼吸に包まれて、新しい息吹となった。
END